エディタ・グルベローヴァ ~ ほんものの価値
2007/4/14
この人を初めて聴いたのは、確か1993年のこと、ルチア、ヴィオレッタ、エルヴィーラ、ノルマとオペラ作品が続き、前回の大阪でのリサイタルから4年ぶり。当然その間に聴くほうも歌うほうも歳を重ねているだけに、あの完璧な歌が、声が聴けるんだろうかと若干の危惧を抱きつつ会場に向かう。それがもはやパターンになってしまった。そしていつものように、危惧が杞憂に変わる2時間だった。
この人の場合、舞台に立つ以上は大丈夫、衰えを隠せなくなったときは人前で歌うことをやめる時のような気がする。
前半が歌曲を作曲家別にまとめて、シューマンは共演者に任せて喉やすめ、後半はアリアでというすっきりと整理されたプログラムだ。モーツァルトで小手調べ、シューベルトあたりからエンジンがかかってくる感じ。シューベルト第二曲の「流れ」が素晴らしい。このあたりからゾクゾク状態に突入。完璧にコントロールされた声と、歌詞に応じて変容する音色が醸し出す情感。レフト側3階席なのでオペラグラスで伴奏者の楽譜が見える。何の変哲もない音符の繋がりが、グルベローヴァの歌となって再現されたときの表現の豊かさに驚かされる。
後半はお馴染みのレパートリー。ドニゼッティの二つのアリアでは、昔に比べるとカバレッタの運動性にわずかな翳りを感じるが、ただそれは絶頂期を聴いたことがあるからで、その経験を経ないで聴けば充分過ぎるほどの出来映えかと思う。
「夜鳴きうぐいす」、「牧歌」というコロラトゥーラの技巧誇示の曲は、きっと今より昔のほうが破壊力を持っていたはず、その点では最後のアデーレの歌が圧巻。田舎娘、女王、浮気する貴婦人という演じ分けの見事さ、それも単に身振りだけでなく歌唱と一体のものとして表現するのが何とも凄いところだ。
プログラムも終わりに近づくほど客席もヒートアップ、アンコールの曲が終わる度に立ち上がる人が増えてきて、最後は聴衆の7割ぐらいがスタンディングオベーションという盛り上がり。シンフォニーホールのそもそもの入りはキャパシティの7割、1200人ぐらいの感じ、Pゾーンは売っていないし、高い席と安い席が埋まって、中間が空くというパターンだ(座席移動の摘発に執念を燃やすこのホールだからよく判る)。チケットがべらぼうに高いわけでもないのに、何だかもったいない気がする。この残りの席を埋めるにはあの手この手のプロモーションが必要なのだろうが、それで集まる客がいないほうが遙かに音楽に集中できるというのも事実だ。
[ソプラノ]エディタ・グルベローヴァ
[バリトン]イヴァン・パレイ
[ピアノ]フリードリッヒ・ハイダー
エディタ・グルベローヴァ
モーツァルト:ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いた時 K.520
モーツァルト:すみれ K.476
モーツァルト:鳥よ、年ごとに K.307
モーツァルト:寂しい森の中で K.308
モーツァルト:静けさはほほえみ K.152
モーツァルト:われ心に踊らんばかりの喜びを感じ K.579
シューベルト:ます op.32 D.550
シューベルト:流れ D.693
シューベルト:森で op.56-3 D.738
シューベルト:糸を紡ぐグレートヒェン op.2 D.118
シューベルト:休みない愛 op.5-1 D.138
イヴァン・パレイ
シューマン:ロマンスとバラード第2集 より「二人の擲弾兵」op.49
シューマン:ミルテの花 より「はすの花」op.25
シューマン:5つの歌より「兵士」op.40
シューマン:ロマンスとバラード第4集より「悲劇」op.64
シューマン:ロマンスとバラード第2集より「憎みあう兄弟」op.49
エディタ・グルベローヴァ
ブラームス:4つの歌より「ひばりの声」op.70
ブラームス:5つの歌より「ひめごと」op.71
ブラームス:リートと歌より青春歌その1「わたしの心は緑にもえ」op.63
ブラームス:5つの歌より「おとめは語る」op.107
エディタ・グルベローヴァ
ドニゼッティ:歌劇「シャモニーのリンダ」より
「ああ、あまりにも遅すぎた~私の心の光」
イヴァン・パレイ
ドニゼッティ:歌劇「ドン=パスクァーレ」より「天使のように美しい」
エディタ・グルベローヴァ
ドニゼッティ:歌劇「ランメルモールのルチア」より
「あたりは沈黙にとざされ~うっとりとして」
イヴァン・パレイ
コルンゴルト:歌劇「死の都」より「俺のあこがれ俺の夢想は」
エディタ・グルベローヴァ
アリャビエフ:夜鳴きうぐいす
デラクァ:牧歌 (アンコール)
ヨハン・シュトラウス:歌劇「こうもり」より
「田舎娘を演るときは」 (アンコール)