楽劇「THROUGH ROSES(スルー・ロージーズ)」 ~ とっても暗い定期
2007/12/7

新年度から大阪シンフォニカー交響楽団の音楽監督・首席指揮者に児玉宏氏が就任することになり、現在ミュージックアドバイザー・首席指揮者の肩書を持つ大山平一郎氏は今シーズン限りとなる。人事が発表されたのは最近のことだが、最後のシーズンに本当に自分のやりたいシリーズを企画したと想像するので、大山氏の退任はずいぶん前から既定路線だったのだろう。このシリーズのチケットを売り出したのは1年以上も前だったし。その甲斐あってか、このプログラムにして、いずみホール7割の入りというのは快挙と言える。しかも、ザ・シンフォニーホールの大植英次氏/大阪フィルの定期とバッティングしているのだから。

近代音楽のアプローチ 《星のとき》 第三夜「死の淵から」
   ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第8番Op.110(弦楽合奏版)
   ナイクルーグ:楽劇「THROUGH ROSES(スルー・ロージーズ)」
     大山平一郎/大阪シンフォニカー交響楽団
     夏木マリ

確かに、作曲家が台本も書いて、音楽と言葉の合一を企図するという点では、ワーグナーの楽劇に通じるとも言えますが、これは一人芝居と現代音楽のコラボレーションというところか。ストラヴィンスキーの「兵士の物語」の本歌取りと言えなくもない。

物語はナチの強制収容所で生き残ったヴァイオリニストの追想で進行し、彼が見た悪夢のような光景が語られる。将校たちのためにヴァイオリンを弾く、つまり、芸は身をたすくということなのだが、そうしたある日、彼の恋人が豊かな髪を刈られた無惨な死骸となって運ばれるのを、バラの花壇の隙間から目にするという残酷な結末に至る。

照明も落としてピットのようになった舞台で、8人のオーケストラの演奏が始まる(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、フルート、オーボエ、クラリネット、ピアノ、パーカッション)。前奏曲というわけでもないが、間奏曲に相当する部分もあるので、一幕二場構成とみることもできる。こういう、シンプルな編成の現代音楽というのは、芝居や映画との親和性が非常に高いと思う。インストルメンタルだけだと苦痛であっても、語りや映像とは不思議とマッチするものだ。

舞台上には小さなテーブルと大きな椅子、演奏が始まってしばらくしてから登場した夏木マリさん、何の予習もしていなかったので、ドレスじゃなくて役柄の出で立ちなので、ちょっとびっくりしてしまった。まるでナチスの親衛隊の衣装のような感じ、なんだか映画「愛の嵐」の主人公を連想させるような気配。オヤジ世代としては、つい「絹の靴下」を思い出して、あらぬ妄想に耽りそうだが、あの映画のスチル写真みたいな扇情的な格好じゃないので、念のため。

彼女自身がプログラムに書いているように、長い時間をかけて練習を積んだことが窺える。いちおう譜面台には台本があったが、その助けを借りる様子はほとんどない。この人の演劇人としての姿に接したことはなかったが、なかなかのものだ。ただ、残念だったのは、PAの調整にもう少し神経を使ってほしかったこと。声にとっては残響が多すぎるホールでPAを使うのはやむなしとしても、ボリュームが大きすぎて、アンサンブルとのバランスを失している。前半はなかなか異様な音響バランスに耳が馴染めなかった。せっかく彼女が多くの時間を準備に割いたのだから、ホールのリハーサルで音響スタッフが入念に調整すべきだし、客席のあちこちに座って指揮者以下がバランスを確認すべきだ。そのことが疎かにされたような気がしてならない。いっそ、PAなしにしたら、部分的には台詞が聞き取れなくても、そのほうが聴衆の集中度も高まるし、テーマの深刻さからしても相応しいのではないかとも思える。

前半のショスタコーヴィチも暗さにかけては引けをとらない名曲。演奏も拡大弦楽版の特質を活かした重さを感じさせるものだった。暗さとアイロニーがこの日の二つの作品に共通するものだろうか。ショスタコーヴィチは例によって自作の引用が満載、ナイクルーグにはベートーヴェン第9のパロディも出てくる。どちらも屈折したままで、希望がなかなか持てない曲調で終始する。まあしかし、こんなプログラムを組むのは、意欲的というか、開き直りというか、ありきたりのものが多すぎる大阪のコンサートシーンでは異色中の異色と言える。

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