大阪国際フェスティバルの「アイーダ」 ~ 両極、観くらべ、聴きくらべ
2008/4/22

ひと月前に観た「アイーダ」とはずいぶん違う「アイーダ」だった。まさに両方の極と言ってもいい演出、舞台に要する経費は二桁違うんじゃないだろうか。

アイーダ:キャサリン・ネーグルスタッド
 ラダメス:ヤン・バチック
 アムネリス:イルディコ・セーニ
 アモナスロ:ヤチェック・シュトラウホ
 エジプト国王:コンスタンティン・スフィリス
 ランフィス:ダニロ・リゴザ
 巫女長:ウルリケ・ピヒラー・シュテフェン
 指揮:ウォルフガング・ボージッチ
 管弦楽:東京都交響楽団
 合唱:東京オペラシンガーズ、栗友会合唱団
 演出:ペーター・コンビチュニー

片や豪華絢爛、蕩尽の極地のゼッフィレッリ演出、こなた極限まで削ぎ落としたコンヴィチュニー演出、同じ素材を扱いながらここまでの差異があり、どちらも楽しめるのはオペラの面白いところ。

舞台には白い壁とソファが一つあるだけ、照明の変化はあるにしても、これで四幕通してしまうんだから確信犯的。コーラスは舞台奥に隠れているし、バレエも一切ない、姿を現す登場人物は7人だけ。ええっと、あっちは300人ほど、おまけに馬まで走っていたのだから、大違い。

このコンヴィチュニー演出、悪くない。これは、歌手さえ揃えばスペクタクルよりもずっと凝縮されたドラマになって、素晴らしい舞台かと思う。「アイーダ」に付きまとう大仰さの逆を行き、(演出家が考える)夾雑物を徹底的に取り払って舞台上の心理ドラマに集中させるという手法、否が応でも狭い空間で交わされる演技、言葉、歌に重きがある。

歌手さえ揃えば、という留保条件がつくのは、今回のキャストではアイーダひとりが別格、ラダメスもアムネリスも不満が多かったから。タイトルロールのキャサリン・ネーグルスタッドは、やや暗めの独特の声だ。イタリアの声というイメージからは遠く、違和感を感じる向きも多いかと思うが、私は好きだ。存在感では随一。

しかし、アイーダだけじゃどうにもならないオペラなので、ラダメス、アムネリスがもうちょっと何とかならないかなあ。特に第1幕の不出来は残念。ラダメスの冒頭のアリア、声を張るところは何とか格好がつくんだけど、高音のピアノはフニャフニャ状態。いちおう軍人で司令官なのに、甲種合格は覚束ないメタボ腹と相俟って、失笑してしまいそう。アムネリスも酷いイタリア語で何だこりゃと感興を殺ぐこと著しい状態だった。

休憩は第2幕の後に一回のみ。舞台転換もないから、第1幕、第2幕の四つの場面は全く切れることなく続く。こちらが慣れてきたのか、歌い手の調子も上がってきたのか、出だしの不満は場面が進むにつれて薄らいでいった。一方で、私が一週間ほど前から悩まされている腰の痛みが堪える。フェスティバルホールの天井桟敷でエコノミークラス症候群になってしまいそう。

第2幕にあるバレエ音楽は、さすがに舞台上での処理に困ったところが目につく。第1場はアムネリスの性的妄想という感じで、第2場は聖俗の支配層の戦勝祝いの乱痴気騒ぎという趣向で、それなりの意味を込めたと想像するが、どうもヴェルディの書いた音楽に押しつけるのは無理がある。

この演出ではランフィスの扱いにかなり重点が置かれていて、戦争の影に宗教ありという図式をクローズアップさせるようなところがある。オーストリアのグラーツで1994年に制作されたプロダクションということなので、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を踏まえたものであると想像する。民族浄化の狂気、実はその深淵には宗教が横たわっている愚かしさへの皮肉であると感じる。それは、今のイラクでも繰り返されていること。

閉じた舞台空間が開くのは二度、最初は凱旋の場で奥に座ったコーラスとウインドオーケストラを見せるとき(全く必然性はないので、観客の視覚上の退屈を紛らすためか)、それと最後の場面で壁が取り払われて平和な日本の夜景を映すとき(東京では渋谷の映像だったようだが、こちらでは大阪の映像のよう)。これは、アイーダとラダメスが手に手を取って閉塞した空間から旅立つというイメージの表出か。なぜだか、そこではアムネリスとの和解も仄めかされるという寸法。これが、「戦争をやめて和解せよ」というメッセージなら、ちょっとナイーブで安直な気もするが…

そうそう、特に休憩を挟んだ後半、コーラス、オーケストラが大変にいい出来映えだったのに感心。東京都がやるイベントなのに、遂に上野のピットには入ることがなかった東京都交響楽団、まさか知事への意趣返しじゃないだろうが、実力のほどを発揮。あんな急拵えの寄せ集めオーケストラとは比較にならないと再認識。

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