沼尻竜典/大阪センチュリー ~ メシアン生誕100年
2008/5/20

リチャード・ドーキンス「神は妄想である - 宗教との決別」という本を半分ほど読んだところだが、「ここまで大上段に論じるようなテーマかなあ」というのが率直な印象。日本人ならそんなことコモンセンスに近いのに。しかし、アメリカじゃ未だ宗教の呪縛が強い、あるいは一層強くなってるのが深刻な現状のようだ。かような主張をする自然科学者には迫害の虞すらあるぐらいだから。

そんな文脈でメシアンのタイトルを目にすると、これはアメリカほどではないにしてもヨーロッパでも未だ大真面目にこういう発想なのかと思ってしまう。

メシアン:神の現存の3つの小典礼
 モーツァルト:交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
   永野英樹(ピアノ)
   原田節(オンド・マルトノ)
   びわ湖ホール声楽アンサンブル(女声合唱)

神学者でもある作曲家だから仕方ないにしても。「神は現存などしない」と考える自分としては、どうも居心地の悪い作品だ。音楽的にも、良し悪しを言う前に、音響的に肌に合わないと感じてしまうところがある。

例によって原田節さんのオンド・マルトノ(この変な楽器はメシアン以外で使っているんだろうか)が入り、びわ湖ホール声楽アンサンブルの女声合唱も加わる。このアンサンブルはレベルが高いので、美しい響きではあるのだけど、いささか曲は退屈。沼尻/センチュリーも熱演だったとは思うのだけど。

知らなかったけど、今年はメシアン生誕100年にあたるらしい。ピアノの連続演奏会などがあるのはそのせいか。メシアンのファンなのか、現代音楽ファンなのか、大阪にもそれなりの人数はいて、前半プログラムのあと、数十人はモーツァルトを聴かずにシンフォニーホールを後にしていた。

モーツァルトは定期演奏会ヴァージョンの佇まいだった。ルーチンとしての演奏ではない、端正で引き締まった響きで、首席客演指揮者に就任後、初めての定期演奏会らしい雰囲気が漂ってくる。

今回、メシアンは沼尻さんの意欲を感じさせるプログラムだろう。でも、「オール・メシアンなんてやられたら客が来ない」という営業サイドからの至極当然の要請と折り合いを付けたのが、「ジュピター」ということだったのかな。仮に曲順が逆なら、休憩でゴソッと抜けたかも知れないけど、でも、どうせやるなら、モーツァルト~メシアンだろう。そうすれば、すっと集中してメシアンを聴けたはず。

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