児玉宏/大阪シンフォニカー定期 ~ 判りやすい20世紀音楽
2009/3/18

いずれも財政的に厳しい状況にある大阪のプロオーケストラ、そんな中で大阪シンフォニカーの定期演奏会は、よくまあ客の入りそうもないプログラムを組むなあと、驚くやら、感心するやら。ある意味では立派。児玉宏音楽監督を応援したくなる。

この日のコンサートもエルガー、R.シュトラウス、アッテルベリという、いずれも20世紀に書かれた音楽。アッテルベリに至っては本邦初演である。

エルガー:セレナードホ短調Op.20
 R.シュトラウス:4つの最後の歌
 アッテルベリ:交響曲第6番ハ長調Op.31
  ソプラノ:佐々木典子
  指揮:児玉宏

エルガーのセレナード、弦楽だけの作品で、先週末からの睡眠不足もあって、第二楽章以降は夢心地、もともとそんな音楽だとも言える。

R.シュトラウスの「4つの最後の歌」、この曲のインストルメンタルの間奏、後奏はことのほか美しい。ホルンさえ転けなければとの思いはあるが、児玉さんの棒はとてもデリケートな表情づけで好ましい。佐々木典子さんは、シュトラウスは得意分野だけに、オーケストラとの呼吸やニュアンスの表出には流石のものがある。歌唱としては立派なものだけど、声そのものは絶好調とは言えず高音域の艶が欠けるのは残念なところ。

そして、どんな曲なんだろうと興味津々で臨んだアッテルベリ、何だか肩すかしを食らった感もある。とっても判りやすい音楽、これが20世紀の大戦間に書かれた作品とは思えないぐらい。判らないことをもって現代音楽というわけじゃないのは承知しているものの…

第一楽章、弦セクションと管セクションが、それぞれ勝手に違う楽想を奏でているような感じで相和さないところが何とも面白い。それでいて、分裂した印象でもなく、縦の線はあっているのが不思議、そのあたりは19世紀の音楽でないことの刻印がある。民謡調の楽想が唐突に挿入されたりして統一感は乏しいが、ごった煮風でそれもまた佳しかも。

第二楽章、一転、思いっきり歌ってくれる。チャイコフスキーの緩徐楽章かと見まごうほど。近いところではニーノ・ロータ風の甘美さというところ。この楽章では、弦と管は相和し連綿たる情緒を紡ぎ上げるという格好。

第三楽章、ほとんどふざけているといった風情の楽想、ハチャメチャに突っ走って威勢よく終結。何だこりゃ。本邦初演とは思えないほどオーケストラが作品を手中にしている印象があった。これは児玉さんの確かな手腕が預かって大きいと推察する。

アッテルベリという人は、音楽家としてではなく高級官僚の身で、普通の社会人として生きた人のようで、それが交響曲に対する姿勢にも現れているのではないだろうか。種々雑多の混交、分裂気味の楽想、真摯さと諧謔の交錯などの点では、マーラーやショスタコーヴィチにも通ずるところがあるが、前者の傍目には滑稽にも見える大真面目さや、後者の命がけのアイロニーとは異質なものがある。どうも全身全霊を注ぎ込んで交響曲を書くという態度ではなさそう。

コロンビアがスポンサーとなったシューベルト没後100年記念のコンクール優勝曲とのことで、賞金で高級車を買ったので「Dollar交響曲」という愛称がついたということらしいが、何となく曲から受ける印象も底の浅いアメリカ文化の色合いである。こんなに判る音楽でいいのかという気もあるが、まあそれも面白い。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system