新国立劇場「ムツェンスク郡のマクベス夫人」 ~ いつの時代も
2009/5/10

若杉芸術監督が振るはずだった演目が相次いで指揮者の交替。若杉さんを2階のサイドバルコニーに姿を見なくなって久しい。あと一年の任期を残して、病状が心配なところ。早い復帰を待ちたい。代役に立った指揮者はマリインスキー劇場のアシスタントのようだから、新国立劇場でも同じ役回りで呼ばれていたのだろう。

ボリス・イズマイロフ:ワレリー・アレクセイエフ
 ジノーヴィー・イズマイロフ:内山信吾
 カテリーナ・イズマイロヴァ:ステファニー・フリーデ
 セルゲイ:ヴィクトール・ルトシュク
 アクシーニャ:出来田三智子
 ボロ服の男:高橋淳
 司祭:妻屋秀和
 警察署長:初鹿野剛
 ソニェートカ:森山京子
 合唱:新国立劇場合唱団
 管弦楽:東京交響楽団
 指揮:ミハイル・シンケヴィチ
 演出:リチャード・ジョーンズ
 美術:ジョン・マクファーレン
 衣裳:ニッキー・ギリブランド
 照明:ミミ・ジョーダン・シェリン

20世紀のオペラは、ベルクの作品を例に出すまでもなく、暗くて救いのないものが多くなる。この作品もその最右翼と言えそうなところに、演出がことさらそれを強調する。暗いだけでなく、グロテスクと言ってもいいぐらい。

第一幕で殺鼠剤で退治されたネズミの死骸をボリスが無造作にをゴミ箱にほうり込む。そのゴミ箱は時代や国籍を考えればちょっとヘンな気もするがだが、内側にレジ袋がセットされたもの。セルゲイが家人の目を盗んでそのゴミ箱漁りをしたかと思えば、後のシーンではそのネズミの死骸でアクシーニャをいたぶる。ボリス殺害は殺鼠剤を混ぜたキノコ料理であるから、この舅はネズミ同然の扱いということ。

次の幕では、夫ジノーヴィーの殺害となるが、首を絞めたうえで斧で頭部を切断するという残酷さ。その首を入れるのが銀の皿どころか、先のレジ袋ということなので、舅と同様、亭主もネズミ並ということか。胴体は新しい家具を包んでいた半透明のビニールにくるまれ、血糊が透けて見えるという道具立て。こうなるとホラー映画さながら。客席は呆気にとられてしまったのか、第二幕終了時は拍手もパラパラという状態だった。

もともとドギツイ内容の台本ではあるが、演出はそれを和らげるどころか、醜悪さを強調する方向にある。あくまでも舞台だから、物陰でのアクションなど仄めかしの処理はなされているにしても、殺人、強姦、性的妄想などが、それと判るように演出される。映画ならさしずめRating"R"というレベルかな。

それにしても、ロシア革命前の話のはずが、衣装、装置など、どう見てもこれは共産主義政権下の設定。帝政下も同じか、それ以上ということなのか。無知と貧困、犯罪と腐敗に満ちた社会が舞台で描かれる。時代設定を移しても全く違和感がないか、よりフィットするのは空恐ろしい気もする。そりゃあこんなオペラを堂々と上演したら独裁政権の逆鱗に触れること必定。命知らず、ショスタコーヴィチ、よくまあ、書きも書いたり。終幕の囚人移送は原作は船のはずが、この演出ではトラック、多数の男女がスライドシャッターが付いた後部荷物台に押し込まれる図はホロコーストを連想させる。前世紀の独露の指導者を重ねているとしか思えない。趣味がいいとは言えない演出だが、インパクトは大きい。哀れなロシアの民よ、いつの時代にも横暴な支配者への忍従を強いられる。あっ、この演出を延長すると今に繋がる。

いわゆる戦争交響曲群が書かれる前の作品だが、随所に後の作品のモチーフが登場する。どことなく陽気で人を喰ったような、かえってそれが暴虐さを際だたせる旋律、やけっぱち的と言うかアイロニーと言うか。ショスタコ節はこんな頃から。

ピットに収まりきらず、舞台上や二階左バルコニーに配されたブラス、巨大なオーケストラであるのに不思議と厚ぼったい感じはない。ミハイル・シンケヴィチ指揮の東京交響楽団の演奏は聴きやすい。精妙と言ってもいいぐらい。「新国立劇場のオーケストラは最終日に聴け」というセオリーは今も健在なのか。

この演出では歌手たちも演技のウエイトが大きいので大変である。ボリス、セルゲイの男声キーロールは歌ともども熱演。いやらしく強権的な舅、好色のアウトローをよく表現していた。それに比べるとヒロインのステファニー・フリーデは歌に比重がかかり演技はいま一歩かな。

いずれにせよ、歌の印象はうすく、トータルとしての音響と芝居に関心が行ってしまった感がある。それはそれでショスタコーヴィチの問題作がいまなお毒をもって迫るものだということを実感。やはり実際の上演に接しないことには意味がない。

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