沼尻竜典/大阪センチュリーのショスタコーヴィチ ~ 別の音楽
2009/6/18

グリーグの協奏曲はともかく、楽団員がそんなに多いわけでもない大阪センチュリー交響楽団がショスタコーヴィチのシンフォニーをやるには相当数のエキストラを動員する必要がある。予算が切り詰められているこのオーケストラで、果たして可能なんだろうかと疑問に思いつつシンフォニーホールへ。

休憩のあとの舞台を見たら、やっぱり。さすがに管楽器・打楽器は減らすこともできないので、弦楽器にしわ寄せがきている。本来作曲者が求めた弦五部の人数とはずいぶん乖離している。少なすぎる。苦肉の策なんだろうが、これではパートバランスがとれない。管楽器・打楽器が突出してしまい、包み込み支えるはずの弦の響きがいかにも薄い。大曲を採り上げる意欲はよしとするものの、ちょっと気の毒な感じもある。

グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調
 ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調「1905年」
   アンナ・マリコヴァ(ピアノ独奏)

沼尻さんと京都市交響楽団とのショスタコーヴィチの第8交響曲を昨年聴いている。あれはいい演奏だったが、今回の「1905年」については感心しなかった。標題音楽、交響詩と言ってもいい作品なのに、この人の演奏にはあまりドラマが感じられない。メッセージ性もない。楽譜に書かれた音響を丹念に再現することに執心しているかのような印象を受ける。この曲は演奏によってはとてつもないインパクトがあるはずなのに、あえて感情移入を拒否したような音楽づくりとも見受ける。それがこの人の行き方なんだろうか。

いっぱいいっぱいにオーケストラを鳴らす部分はそれなりの大音響だけど、流れとして見たときに平板、起伏がない。もっと魂を揺さぶるようなフレージングも可能だと思うだけに、淡々とした音楽の進みは欲求不満が起きる。この人はけっこう当たり外れの激しい指揮者のよう。今回は後者。

舞台いっぱいのオーケストラでもないのに、なぜかプロセニアムのバイブオルガンの両脇に鐘が配置されていた。エンディングの鐘の音を高いところから響かせたいという意図なんだろうが、それまでの1時間のメリハリのなさでは、これが浮いた感じになる。

実はショスタコーヴィチの前の休憩時間、ホワイエに長蛇の列ができていて、何かと思えばチケットの引換の列。Pゾーンの客を正面に移すということのよう。全体で8割以上の入りではあったが、ショスタコーヴィチのときにはネット裏から外野席に民族大移動が完了。頭の後ろで鐘をガンガン叩かれたらたまらんだろうという配慮なのか、演出効果上の問題なのか、そこは不明。効果のほどはともかく、座席移動を厳しく取り締まることで悪名高いシンフォニーホールにおいて、楽団主導でこういうことが行われるのは快挙である。大阪センチュリー交響楽団、えらい。

前半のグリーグ、チラシの写真のアンナ・マリコヴァは若いが、ピアノの前に座ったのは眼鏡をかけたおばさんだったので、あれっという感じ。まあ、それはよくあること。見た感じ、なかなか愛嬌のある人のよう。演奏は、良くも悪くもコンクール優勝者らしいピアノというところ。自身がピアノ音楽が好きじゃないこともあり、聴く側を挑発するような演奏でない限り集中できないのはいつものこと。グリーグの協奏曲なんて何年ぶりに聴いたんだろう。

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