ミラノスカラ座来日公演「ドン・カルロ」 ~ 天覧公演の御利益
2009/9/17

ゴーアーの間では今ひとつ評判の悪い今回のスカラ座来日公演、高値のせいで売れ残ったのだろう、A席相当のプレミアム・エコーノミー券(3階正面2列目、半額以下)を首尾良く入手したのは良いが、相次ぐキャスト変更や惨憺たるゲネプロの様子を漏れ聞くに、夏休み最後の一日を充てたものの、いささか気の重いものがあった。

あれは高校生のころ、NHKイタリアオペラでの「ドン・カルロ」をFMの生中継で聴いて、音楽とドラマの素晴らしさに感動して以来、ヴェルディ作品の最高峰として偏愛するオペラ、それをスカラ座が持ってくるというのに…

そこに朗報、確度の高い情報として、公演最終日の平日マチネには陛下・閣下のご光臨があるという話。来日公演千秋楽が天覧公演となれば自ずと気合の入ろうというもの、長嶋が村山から打ったサヨナラホームランじゃないけど。

フィリッポ二世:ルネ・パーペ
 ドン・カルロ:ラモン・ヴァルガス
 ロドリーゴ:ダリボール・イェニス
 宗教裁判長:アナトーリ・コチェルガ
 修道士:ガボール・ブレッツ
 エリザベッタ:ミカエラ・カロージ
 エボリ公女:アンナ・スミルノヴァ
 テバルド:イレーナ・ベスパロヴァイテ
 レルマ伯爵:キ・ヒュン・キム
 国王の布告者:カルロ・ボージ
 天の声:ユリア・ボルヒェルト
 指揮:ダニエレ・ガッティ
 演出・舞台装置:シュテファン・ブラウンシュヴァイク
 衣裳:ティボー・ファン・クレーネンブロック
 照明:マリオン・ヒューレット
 合唱指揮:ブルーノ・カゾーニ

野次馬根性丸出しで、開演前と休憩の度に2階のサイドバルコニーから正面席を覗く。スカッと空いていて、SPとおぼしき人の姿があちこちに見える。ご丁寧に通路や座席周りをチェックしている。これは間違いない。

お越しになったのは第三幕の始まる前、長いオペラだから、私的な楽しみで来ていた小泉元首相のようにはいかない。こちらは公務、イタリア大統領夫妻とともに、「日本におけるイタリア2009・秋」の公式行事の一環だから。

ところが、お席は私の席の真下、会場の視線が一斉に注がれ、報道のフラッシュが焚かれ拍手が沸いていても、どなたが席に着かれたのかは確認の術がない。公演終了後に人伝で事前情報に間違いなかったことを知る。

無理をして最初からご覧いただいたら、どれだけ良かったか。と言うのも、ご光臨以降は演奏の密度が格段に上がったのだから。そこらあたりがいかにもイタリア人らしい。日本のオーケストラだったら、ここまで極端じゃないだろう。オーケストラの音の丁寧さ、潤いがずいぶんと違う。もちろん、その前からイタリアオペラの音は出していたのだが、ダニエレ・ガッティの指揮が重かった。遅すぎるテンポに当惑する。鈍い女声の動きに合わせたのかどうか何とも言えないが、だるい部分が多くてドラマの推進力を感じない。ボローニャ歌劇場の来日公演で聴いたときは、もっと才気を感じたのに。どうしたんだろう。ここのオーケストラとはしっくり行かないのか。

主役級の歌手が6人揃わないと始まらない「ドン・カルロ」、メットなら金に飽かせてビッグネームを並べることもできようが、これがスカラの現状か、ずいぶん小粒なキャストだ。名実ともにスターと言えるのはルネ・パーペぐらい。他はどこかに難がある。もっとも、その難も致命的ではなく、それぞれの役を歌いきるのはもちろん、バランスとしてはそれなりにとれている。それが、腐っても鯛ならぬスカラと言うことかしら。

シュテファン・ブラウンシュヴァイクの演出・舞台装置、墓場のシーンで始まるので、いきなり鯨幕かと思った人が何人もいたようだが、まさか日本公演に合わせた訳でもなかろうし、葬儀の場面でもないから、ただの偶然、白い部分は扉だった。

このシーンはもとより、全幕通してシンプルな装置である。それはそれで、音楽の凝縮度の高い「ドン・カルロ」ではマイナス要因ではないが、過度に説明的なところや、余計な動きは好ましいものではない。カルロ、ロドリーゴ、エリザベッタの分身ともいうべき子役を登場させ、追想シーンなどに黙役としての演技をさせるのは不要なことと思う。いちおう台詞とのシンクロは考慮されているようだが邪魔である。

第一幕第二場の最後、フィリッポとロドリーゴの対話シーン、Restate!とロドリーゴを止め、幕の降りた舞台前面でバリトンとバスのデュエットが進む。そのまま幕切れまでと思いきや、幕の後でゴトゴトとしているので休憩時間にやればいいものをと腹立たしく感じたら、La pace dei sepolcri!(墓場の平和)というフレーズを合図に幕の後方の墓場が表われるという転換、考えていることはよく判り、それなりの効果もあるアイディアなのに、東京文化会館の舞台機構の不備が惜しい。

ティボー・ファン・クレーネンブロックという名前が衣裳担当として載っているが、コーラスのアイディアはこの人のものなのか、演出家のものなのか。第二幕第二場のアウトダフェ(異端者火刑)の場面、ここで登場する市井の人たちのくたびれた衣装は、くすんだ黒や灰色で統一され背景と化しているので気付かなかった人も多いかと思うが、剣襟のジャケット、革ジャン、ワンピースとほとんど現代に近いものだ。主要登場人物の衣装とは400年の隔たりがある。ところが、ぱっと見、何の違和感を感じないのは不思議である。この場面と、第三幕第二場のロドリーゴの死のあと、牢獄に乱入する群衆も同じ格好である。いずれの場面も、民の声は国王や宗教裁判長の権力にひれ伏してしまう成り行きだから、明らかに寓意を込めたものであろう。

題名役のラモン・ヴァルガス、本来軽めの声の人だから、まともなアリアもなく出ずっぱで中声域を多用するカルロには果たしてどうかなという懸念があったが、第一幕では心配したことが起きた。高音域と中音域が、まるでテレビ番組とCMとの関係、音量レベルの落差がひどく、高音域に移った途端に声が奥に引っ込んでしまう。音が出ない訳ではないのに、上下の極端な違いが耳について聴きづらいことこの上ない。いっそ、中音域以下も高音域のパワーに合わせて抑えたほうがよかったのではないか。もっとも、そうすると弱々しいカルロになってしまうが、優柔不断、史実にある虚弱な王子としては相応しいかも知れない。後半になると喉も温まったのか、出だしほどの違和感は薄らいだが、スカラでこの役を歌う水準じゃない。

対照的なのはロドリーゴのダリボール・イェニス、こちらは声はガンガン出るところは大劇場向きなのだが、何とも粗い。ヴェルディ・バリトンとしてのレガート唱法、真のカンタービレがない。聴いていて疲れる声だ。この人も場合も幕が進むにつれて、ずいぶん聴きやすくはなってきたのだが。

エボリ公女のアンナ・スミルノヴァ、この人も第一幕は最悪の部類かと。フレーズの終わりに鼻にかかったような短い余計な音がくっつくのに閉口したのと、運動性の全く感じられないフレージング、第一幕第二場のヴェールの歌がここまで鈍重なのは指揮者ガッティの責任もあろうが、逆にキリリと締まった伴奏だと付いていけないのではとも思わせる。彼女の場合も、第三幕の大アリア「むごい運命よ」では不満のない歌だったので、スロースターターか、このピークに合わせてパワーを温存したのか、尻上がりと言えば聞こえはいいが、出し惜しみしてほしくないところである。

エリザベッタのミカエラ・カロージ、ほんとうはバルバラ・フリットリの日を聴きたかったところだが、無難な歌かなという感じ。美しいピアニシモはない人のようで、肌理細かさではおそらくフリットリの足下にも及ばないだろう。大味という不満はあっても前三者と違ってそれなりに安定していたことは評価できるところかも知れない。

宗教裁判長のアナトーリ・コチェルガ、この役は歌唱(演技も)次第では第三幕を支配することも可能な役柄、威丈夫で声にも凄みはあるのだけど、如何せんイタリア語の口跡の拙さが足を引っ張っている。このバス・バスのデュエット私の大好きな部分、パーぺとの二重唱はなかなかの聴きものではあったが…

以上、消去法でもパーぺのフィリッポ二世ということになる。まだ若いし、どの程度この役を歌い込んでいるのか知らないが、当初予定されていたサミエル・レイミーの次の世代として、今後10年は第一人者の座にいるのではないだろうか。

ということで、好き好んで粗探しをしたい訳じゃないけど、天下のスカラで歌手のレベルがこの程度かと残念な気がする。それは期待水準、要求水準の高さと裏腹のことだが、2001年にサントリーホールや新国立劇場で上演されたときのほうが歌手が揃っていたのではとさえ思える。

幕が進むにつれて徐々に良くなって行き、最後は帳尻を合わせてしまうのがスカラ伝統の力というものか、それとも、天皇皇后両陛下、イタリア大統領閣下夫妻ご臨席の賜物か。第三幕以降の充実ぶりで、それなりに満足して終わってしまい、何となく誤魔化されたような気もするなあ。しかし、定価で購入した訳じゃないから、まあ、よしとするか。

天皇陛下にしてみれば、途中からのご鑑賞、そしていきなりフィリッポ二世のモノローグ、皇太子殿下との葛藤が伝えられるなか、このオペラのスペイン王と王子の関係に何を思われただろうかと、下々のものとしては想像を巡らす…

今回の公演では通常の四幕版に、舞台上演では聴いたことのないナンバーが挿入されている。ロドリーゴの死の後のフィリッポとコーラスのアンサンブルがそれ。ロドリーゴの死を悼むフィリッポの歌を聴きながら、この王は偉大な人物だと、ふと思った。部下であるロドリーゴのあまりに直截な言葉での諌言、たとえばこれを企業に置き換えてみれば、冷や飯、左遷は当たり前というところ。よほどの器量の人物でない限り、経営者の周りをイエスマン、茶坊主が取り巻くのが見慣れた風景である。それなのに、この王は、意見を異にし直言を憚らない部下を愛し、重用しようとする。世界の半分を支配するだけのことはあるという見方もできそうと、馴染みのないヴェルディの音楽が流れるなか、妙なことを考えた。

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