大植英次/大阪フィル定期/アルプス交響曲 ~ なんともはや…
2010/2/17

寒かった。天候も演奏も。賑やかなだけという感じで、どうも粗くて… 終演後、友人とホール入口で、
「まあつまらん曲ですなあ、それに演奏がこれじゃねえ」
「もっと練習してからやってほしいで。あらっぽすぎるなあ」
てなことを喋っていたら、横から見ず知らずのおっちゃんが、
「そや、公開ゲネプロでんな、トラ(エキストラ奏者のこと)ばっかりやし」なんて、いきなり乱入。
「まあ2日目や東京公演ではようなるかも知れまへんで。今日はシューマンの初めの"バン!"で、あかん思た」と宣う。おっちゃん、玄人筋か。

アフターコンサート、こんなヘンな盛り上がり方でないほうがいいに決まっているけど。

シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
 R.シュトラウス:アルプス交響曲作品64
   指揮:大植英次
   ピアノ:フランチェスコ・ピエモンテーシ

アルプス交響曲、なんでこの曲は映像付きでやらないんだろう。私は素浄瑠璃を聴いたことはないが、思うにそんな感じかな。人形がない文楽の風情。ディズニーの「ファンタジア」のひそみにならうまでもなく、アルプスの実写や世界に冠たる日本アニメとのコラボでやれば、ずっと面白いと思うんだけどなあ。

もともと、シュトラウスのこの曲はそういう音楽、NHKに一杯ありそうなハイビジョンのアルプスの映像でもいいし、宮崎駿や井上雄彦のアニメでもいい。オーケストラだけで聴くというのは、このメディアコンプレックスの世の中に時代錯誤という感もある。定期演奏会で威儀を正してコンサートホールの椅子に座っていることが滑稽に思えてくる。

大植さんが毎年やっている御堂筋沿いの大阪クラシックで中之島公園あたりでやってもいいし、大阪城の星空コンサートでもいい。芝生にゴロンとして気楽にビールでも飲みながら、巨大スクリーンの映像とともに楽しむに相応しい作品ではないかな。そんな企画のほうが、芸術嫌い体育会系の知事には受けそうだし。

もちろん、オーケストラを眺めているだけでも面白い。シンフォニーホールの舞台鈴なりの大阪フィル+エキストラ、ウィンドマシンやサンダーマシンあたりは見たことはあるが、楕円形に巻いたワーグナーチューバを舞台上で見るのはたぶん初めて、途中では十数名のバンダが客席ドアの向う側から聞こえてくる。それだけでも興味深いが、やはり映像があってこその音楽ではないかと思う。1915年の初演、シュトラウスはそこまで考えなかったのかな。

それで、この日のアルプス交響曲の演奏、著しく繋がりに欠け、その場その場の派手なサウンドだけが頼りという空っぽさだ。冒頭の「夜」のモヤモヤと滞留するだけの音楽に先行きの不安、あとは木に竹を接ぐような1時間弱で、「日の出」、「頂上にて」、「雷鳴と嵐」といった、ブラス大張り切りの箇所にやけに力点が置かれていて、一連の情景の推移(それが音楽の肝では)を感じることはない。

個々のパートはどれも熱演と言っていいし、ずっこけることもない金管群の活躍は目覚ましい。だが、合奏としてどれだけのリハーサルができていたのか。バランスや受け渡しなどへの配慮はあまり感じられない。どこかのおっちゃんのように、これじゃ公開ゲネプロと言われても仕方ない。東京も含め3回公演、「だんだん良くなる」ではプロオーケストラとしては恥ずかしいことじゃないかな(チケット価格を傾斜させるならそれなりの合理性はある)。

標題に徹底的に肉薄するシュトラウスの練達のオーストレーション、ひたすら堪能することがこの曲のほとんど唯一の聴き方だけに、しっかりしたアンサンブルに立脚した個々のプレイヤー、パートの名技、指揮者の語り口の巧みさがあってこそである。派手な大音響でぱっと見は誤魔化せるかも知れないが、この長さを持ち堪えることは容易じゃない。それにしても大植さんの志向は、この系統の音楽に行っちゃったんだろうか。書かれた音楽のなかに深い意味を見いだそうという姿勢に関しては、月初めに聴いた沼尻さんとは全く逆方向に変化しているのが興味深い。

前半のシューマンのコンチェルト、生誕200年で今年は何回か聴くことになりそう。好きなものならともかく、そうでない自分にとって、こういうふうに記念の年の影響を受けるのは困ったことだ。今はやりの草食系の雰囲気のピアニストで、良く言えば繊細、歯に衣着せずに言えば芯がない。オーケストラを向こうに回してという演奏ではない。組み合わせる作品はいっぱいあるのだから、いっそシュトラウス・プログラムにしてくれたほうが余程ありがたかった。

(2017/2/23追記)

この記事で書いている「アルプス交響曲」の映像付演奏については、似たようなことを考えた人は昔にもいたようだ。1948年のことというから70年ほど前、映像じゃなくて説明のための文字投影だったようだが、趣旨としては同じだろう。最近読んだ 「ブルーノ・ワルター 音楽に楽園を見た人」(エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー著、音楽之友社)の中にそんな記述がある(447ページ)。

ワルターは『ニューヨーク・タイムズ』で、ミトロプーロスがシュトラウスの《アルプス交響曲》の描写的要素を説明するために、「カーネギーホールの緞帳の上に標題を投影する」ことを計画しているという話を読んだ。

ニューヨークフィルの前任者と後任者、どちらも歴史に名を残す巨匠である。その二人の間で、この曲の標題をめぐるやりとりがあったとは興味深い。結果、先輩の反対意見を容れて計画は取り下げとなったらしいが、この曲にはこの種の議論がつきまとうようだ。以下は、この本で引用されているワルターの手紙。非音楽的なものでの標題の説明を否定しつつ、この作品(あるいは作曲家自身)へのネガティブな評価もほの見える書き方になっているのが面白いところだ。

シュトラウスが《アルプス交響曲》を書いた時、彼の目的は、タイトルが示す通り、交響曲を書くことでした。もし彼が、自らの人並み外れた描写の才に唆されて、氷河や滝などを「絵に描く」誘惑に抗し切れなかったとすれば、彼は交響的音楽の崇高な境界線を越境してしまったのであり、彼が劇作品で使う手法を本質的に異なる分野に持ってきてしまったのです — しかし、彼の弱点を — いや、もっとまずいことには — 絶対音楽の弱点を、文字で描写意図を公に説明することによって強調して、非音楽的な助けなしではその意図は理解不能であると白状する必要があるでしょうか?

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