びわ湖ホール「ボエーム」 ~ 限りなく女性上位
2010/3/14

びわ湖ホールのプロデュース・オペラで、ここまで女性上位というのはあまり聴いた覚えがない。マルチェッロ役の堀内康雄さんの負傷降板という事情はあるにしても、あまりの落差、アリアは言わずもがな、アンサンブルのバランスもあったものではない。演出が大変に面白かったので救われているが、これが先の横浜のような忌まわしい代物だったら悲惨な結果になっていただろう。

ミミ:浜田理恵
 ロドルフォ:志田雄啓
 ムゼッタ:中嶋彰子
 マルチェッロ:迎肇聡
 ショナール:井原秀人
 コッリーネ:片桐直樹
 アルチンドロ:晴雅彦
 パルピニョール:大野光彦
 ブノア:鹿野由之
 その他のスタッフ:前日と同じ

同情に値するところはある。この演出で、動いて演技して歌って、しかも舞台上にはなんだかんだと物が転がっていたりする。一通り覚えて動けるようになったとしても、今度は歌が疎かになりかねない。いまの歌手は大変だ。堀内さんは肉離れを起こしたそうだが、マルチェッロはそんな激しい動きではないと思ったのに、オーソドックス演出でやってきた人にとっては、ムジークテアターはしんどいものがあったのかも。きっと横浜にも出ないのだろう。

びわ湖のプロデュースオペラ、若杉時代は呉越同舟キャストはふつうだったが、沼尻時代になって二期会の色が濃くなった。その公演に藤原歌劇団の堀内さんが出るのは、実力の上では当然だし舞台が締まると喜んでいたのに、残念なことになってしまった。

そして、アンダーから襲った迎肇聡さんは私にとってはお馴染みの人である。びわ湖ホール声楽アンサンブルの一員で、伊丹のVOCヘンデルオペラシリーズの常連でもある。小さいホールでは何度も聴いていて、その立派な声には潜在力を感じているバスバリトンだが、ボリュームはあっても響きがない。剛球投手が体の回転で放るのではなく、手投げになって痛打されるようなイメージである。大きな声がいいのではなく、堀内さんのように美しく響かせることが大事ということを、わかっちゃいるけど準備不足ということか。

同じ役を前日に歌った宮本益光さんは多才な人だけに、複雑な演技もしっかりこなしていて、なおかつ歌の力も充分ある一方で、迎さんとちょっとタイプは違うが響きの問題がありそう。プッチーニの場合はヴェルディほどベルカントが死命を制するということはないが、それでもイタリアのオペラ、深く美しい響きがほしい。

いまや絶滅危惧種になったテノール、志田雄啓さんという人は聴いた記憶がないが、ちょっとこれじゃ淋しすぎる。前日の望月哲也さんは精一杯やっているもののいまいちと感じたのだが、ああ昨日のほうがよっぽどいいやでは困る。不調なのか、声が出たり引っ込んだり、まだら模様でスカスカ、それにしても安定感をもって歌い通せる人のいかに少ないこと。これは何も国内に限ったことではないが、ほんと、テノールはどこにいる!

男声の凹みは改めて感じることではないが、そもそも裾野の広さの問題だろう。こんな不安定な職業に賭けるなんてまともな人間のすることではないんだろうなあ。そんなイカれた人間が多いと、それはそれで大変面白いことになるのだが、如何せん、常識の支配する日本、突然変異的な逸材を期待するしかないのかも。

一方、競争率が限りなく高いソプラノ、新しい人が陸続と現れる。そこで出番を確保するのは並大抵のことではない。びわ湖ホールのプリマといってもいい浜田理恵さん、そして中嶋彰子さんの存在感は段違い、気の毒なことだがこの日の恋人役とは異次元の歌である。この二人は歌い手に負荷の高い演出の中でしっかり地に足がついている。滑りもせず、転びもせずである(物理的にその危険のある舞台でもある)。実力に加え内外での場数を踏んでいるというキャリアの違いだろう。

前日のミミ、澤畑恵美さんと浜田理恵さんの違いは、第3幕でよく判る。よりスピントに近いのが浜田さんで、澤畑さんは正味のリリコだ。第1幕の可憐なミミはいいが、第3幕のパセティックな情感を出すには浜田さんのほうが合っている。初日、唯一の満足できる歌唱だったのが澤畑さんだったから、優劣というより、ミミをどう捉えるかということで、どっちが好みかということになろう。

ムゼッタでは断然中嶋彰子さんの存在感が勝る。臼木あいさんも悪くないのだが、性格の強さが身上の役なので、適性は歴然、中嶋さんはずいぶんとこの役を歌っているらしい。ということで、女性陣は二日目に軍配。

このホールでいつも感じるのは、ソロの音響の補強は上手くできていても合唱だと音量が過大ということ。小野隆浩氏は音響デザインの本まで書いている人だが、コーラスのフォルティシモの部分の調整だけは工夫の余地があるのではと感じる。

二日連続で見ると演出の細かな点にも気付くようになる。しかし、未だ理解できないのが、終幕のカンパのシーン。パーティの参加者から金を集める意味が理解できない。懐が豊かになったのだったら、自分のポケットから出せばいいではないかと思うし、現にマルチェッロはそうしている。金持ちほどケチだからということでは説明できないし、コッリーネは台本の制約上その上等のコートを人に売り渡して換金せざるを得ない。どうも首尾一貫しない場面だ。それともロドルフォだけがクソ野郎という解釈なのか。横浜で観たら謎が解けるかも知れないが、その予定はない。

私は演出のほうばかりに気をとられていたのだが、イタリアオペラを聴くために劇場に足を運んだ人には詰まらない時間だったかも知れない。休憩なしで全四幕、しかも舞台転換のインターバルもないから、あっという間に幕切れ、音楽のテンポも快速である。
 どうもこれはコーミッシェ・オーパーのプロダクションというせいかも知れない。あちらはドイツ語上演だ。テンポ良いドラマの進行と言えば聞こえがいいが、ドイツ語でやったらプッチーニ節のタメなんて無理なことも背景にあろう。子音は常に母音と結びつき、終わりから二つ目の音節にアクセントがあり音が伸びる。それに高低をつけたらもう歌になるような言語と、子音の連続する言語では水と油だ。聴きたくもないプッチーニのドイツ語上演だけど、そのことが逆に歌の索漠を埋める演出を導く必然性があるのだろう。

とにかく褒めるにしても貶すにしても話題満載、早い終演で5時過ぎから飲み始めたホワイトデーの白ビールはワインに変わり、果てはリストにない焦げ臭い黒ビールに及ぶ。まあ、料理も進むしネタも尽きず、あっという間に8時近く。それがドイツレストランなのに、「ボエーム」と違和感がないのが奇妙である。

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