高関健/京都市交響楽団のウェーベルン&マーラー ~ 両極!凝縮と拡散
2010/6/19

記念の年ということで、ショパンやシューマンのプログラムが目立つ今年、この人も生誕150年だが、マーラーが多い感じはしない。大がかりな作品が多く、そうそう気易く取りあげにくいこともあろうし、そもそも近年の人気で演奏頻度自体が高まっていることもあるだろう。大阪では関西フィルで第5交響曲、大阪フィルで第1交響曲が定期演奏会のプログラムに入っているが、珍しい演目ではない。京都市響の第7交響曲が辛うじて記念の年らしいプログラムと言える。

ウェーベルン:管弦楽のための5つの小品op.10
 マーラー:交響曲第7番ホ短調「夜の歌」
   指揮:高関健
   管弦楽:京都市交響楽団

演奏曲順が変更になったそうである。こちら、もともとマーラーの一曲プログラムだとばかり思っていたので、「あれっ、ウェーベルンもあったのか」という始末。今日は遅刻はできないなあ」と心配する必要もなかった。

編成の小から大へ、そりゃそうでしょという感じ、でも裏方さんにとっては大変なことこの上ない。短い曲が終わった途端に次の大編成作品のための設営、ここで休憩がある訳じゃないので具に拝見。久しぶりにPゾーンでの鑑賞なので目の前だ。最初のプログラムの演奏時間を遙かに上回る模様替えインターバル。

ウェーベルンの二つの管弦楽作品、どちらも小品集で一つひとつは1分程度、こういう音楽だから集中力を持続させるのはこれが限度だと思う。厳しい音楽、一音一音を逃さず聴き取るという風になってしまう。きっと高関さんはウェーベルンのほうをやりたかったのだろう。舞台の転換という目に見える部分もさることながら、リハーサルにも手間暇をかけたはず。もっとも、何回か通しても時間的には問題ないかも知れないが。

メインプログラムのマーラー、ずいぶん昔、京都コンサートホールなんて影も形もなかった頃、京都会館で若杉弘指揮で演奏して以来じゃなかろうか。声楽を伴わないとはいえ、多くのエキストラを動員しないと難しい作品だけに、聴くのは私もあのとき以来のはずだ。オーケストラにその頃のメンバーがどの程度残っているのか、あの頃のコンサートマスターの工藤千博氏は先年亡くなっている。

やっかいな曲だと思う。拡張され尽くして、まとまりがなく散漫である。前半プログラムのウェーベルンたちに影響を与えた作品であることは知っているが、交響曲の歴史の終わりを感じさせる形式からの離反が全編を通じて聞こえてくる。これは意識的なもので、だから革新者たちに支持されたということなのだろう。高関さんがこの組合せでプログラムビルディングした真意はそのあたりではないかな。ウェーベルンの一切の無駄を排除して切り詰められた音楽、マーラーのとことん拡大して雑多なものを詰め込んだ音楽、まさに対極、しかしなからどこか通底するのは、伝統からの訣別というトーンである。

前に同じオーケストラで聴いたときよりも、ずいぶん演奏レベルが上がっているはず、精妙なアンサンブルを造りあげることでは高関さんは信頼のおける指揮者だから、それは間違いないし、現にこの日の演奏にもそれが現れている。オーケストラのすぐ後ろで聴いていたから、終演後のメンバーたちの達成感が直に伝わってくる。だが、まてよ、これでよかったんだろうか。これはウェーベルンの文脈で演奏されたマーラーじゃないのかな。精妙さに留意することでマーラーのこの作品の狂気じみた色合いが逆に薄くなったところがある。後半の楽章に行くほど、なんだか退屈な印象が強まり、オーケストラの盛り上がりとは裏腹に音楽の熱気が冷めていくような気がした私、いい演奏には違いないが、一筋縄ではいかない今も問題作ということか。

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