トリノ王立歌劇場「椿姫」 ~ 真夏のオペラシーズン?
2010/7/23

あまりの暑さに早くも夏バテ気味、近年の東京はずいぶん暑くなった。これじゃ大阪と大差ない。汗だらだらではドレスアップしようもなく、どう考えてもオペラの季節じゃない。なのに、私の予定には向こう8日間に4演目が並ぶという、ちょっとした異変。常識的にはテアトロ・レージョの来日にしても6月が順当だが、現地のシーズンが終わっていないのか、勘ぐればワールドカップのあおりでメンバーが演奏どころでなくなるとの配慮だったのかも。もっともグループリーグで1勝も出来ず敗退するとは、こればかりはタコならぬ主催者は読めなかったのだろう。イタリアはタコを食べる国だし。

ヴィオレッタ:ナタリー・デセイ
 アルフレード:マシュー・ポレンザーニ
 ジェルモン:ローラン・ナウリ
 フローラ:ガブリエッラ・スボルジ
 アンニーナ:バルバラ・バルニェージ
 ガストン子爵:エンリーコ・イヴィッリア
 ドゥフォール男爵:ドナート・ディ・ジョイア
 ドビニー侯爵:マリオ・ベッラノーヴァ
 医師グランヴィル:マッティア・デンティ
 踊り:シモーナ・トスコ、ルカ・アルベルティ
 トリノ王立劇場合唱団
 合唱指揮:ロベルト・ガッビアーニ
 トリノ王立劇場管弦楽団
 指揮:ジャナンドレア・ノセダ
 演出、衣装:ローラン・ペリ
 再演演出:ローリー・フェルドマン
 美術:シャンタル・トーマス
 照明:ゲイリー・マーダー

ナタリー・デセイはコンサートでアリアを歌ったのは聴いているが、舞台を観るのは初めてだ。たまたま先日BShiでバスティーユの「夢遊病の娘」を見たが、歌を犠牲にしても舞台での動きを優先するという指向が感じられる人で、音楽だけを聴くと"惜しい"という印象が否めない。もっともそれは劇場の空気を共有していない録画でのことなので、東京文化会館でナマで接すると違うかも知れない。とかなんとか思いつつ、ガード下の立ち飲みで冷たいビールを引っかけて会場へ。熱中症予防に水分補給は欠かせない。

先入観はあたらずといえども遠からず。とにかくよく動く人だ。舞台を走り回っている印象がある。もう少し動きを抑えて歌に集中したほうが完成度は高くなるのにと思うが、それでは彼女の個性を殺すことになるのだろう。もっとも、あの動きの中でも立派な歌であることは間違いない。スタミナも大したものだ。"乾杯の歌"からポーズをおかずに続けたように、ノセダの切りたくないという意思が見えて、第1幕幕切れの大アリアでもカヴァティーナの後の小休止はない。しかもそのまま休憩なしに第2幕第1場へ続く。そして終幕のアリアも2コーラス目のカットなしだ。プリマドンナにとって相当の負担だろうと思うが、しっかり聴かせてくれる。随所でフレージングに違和感を覚えるところはあるが、ライブではあまり気にならない。ローラン・ペリの演出の志向か、デセイの個性か、動きの多い舞台に気が散る面は確かにある。彼女の役柄への没入度は充分としても、その動きが相乗効果を増しているとも言えないところが私には問題含みと思える。

デセイはじめ夜会の参加者の動きを確保するためか、動き優先のせいでボリュームや精度に難が出るのを防止するためなのか、第1幕と第2幕第2場ではコーラスの半数以上がオーケストラピットの奥に陣取っている。何しろ舞台の上には墓場をイメージしたような大きなキューブが並び、その上で、その隙間での歌と演技になるので、これは苦肉の策だろう。この二つの場面の乱痴気騒ぎは相当に下品だ。女たちのスカートは前が完全にスリットになっていて下着が丸見えになるし、その下着を脱がせて頭にかぶるオヤジまで出現するのだから、まあ舞台上ではコーラスどころではないだろう。そんな中で、あれだけよく歌えるものだとデセイに感心することしきり。

休憩は一回だけ、それを第2幕第1場のあとに置くのは、いかにも不自然、ドラマの時間経過を無視したものだし、単に上演時間の配分だけとしか思えない。第2幕第2場から第3幕への転換は、前奏曲の間に舞台上のキューブを白い布で覆い、女性コーラスの人垣で目隠ししてヴィオレッタが着替えるだけで、何ら特別な意味づけもなさそうだ。最近ヨーロッパでは幕を続けて休憩を減らす傾向があるようだが、解釈を伴った必然性のある措置と言えない場合も多い。

舞台はずっとキューブのセットだけである。第2幕第1場に前方上手部分のみ緑に変わり、木が一本置かれる。それが唯一の色彩、ヴィオレッタの束の間の幸福を象徴しているのだろう。しかし、すぐに墓場のゾーンからジョルジュ・ジェルモンが訪れる。演出面では冒頭の前奏曲をバックに葬列が舞台を横切りアルフレードが呆然と見守るシーンを見せるあたりが異色と言えるが、あっと驚くほどのこともない。そんなことよりも、第2幕第2場の夜会でヴィオレッタとアルフレードの抱擁シーンがあることに感心した。確かにここでは両人とも未練たっぷりのはずだし、そのほうが自然、そして直後のカタストロフィーとの落差が際だつ。

私にとっての最高のヴィオレッタは2002年のインヴァ・ムーラなので、デセイの歌と演技は立派とは感じても、あのときのようなカタルシスを感じるところにまで至らない。聴けば聴くほど欲が深くなるものだ。ジェルモン父子は悪くはないが、大きなインパクトがあるかと言うと、否。デセイの夫君、父親役のローラン・ナウリは評価が分かれそう。息のあった歌唱と見るべきか、力任せの平板さが気になると見るか、私はどちらかと言えば後者。

ジャナンドレア・ノセダはオーケストラで聴いただけで、ピットの姿を見るのは初めて。師匠のゲルギエフと同じように割箸のようなタクトを振っているのかと思ったら、棒なしだった。これはオペラでは珍しい。弦に比べると管の非力さが目立つオーケストラをよくドライブしていると思う。コンサート畑の指揮者にありがちな独りよがりと無縁で、劇場の呼吸がわかり、かつ個性的な表現力を持つ希有な存在になりつつある気がする。

オペラがはねても熱帯夜の様相、上野駅から山手線でも地下鉄でもなく、地下の新幹線ホームに向かう。横浜の日曜日までを信州で過ごすという夏休みの贅沢。

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