兵庫県立芸術文化センター「キャンディード」 ~ これは面白い!
2010/7/28

音楽ファンなら誰もが名前を聞いたことのある名作オペラを夏休み時期に多回数上演、抑えた価格設定も手伝って大入りを続けている佐渡オペラ、今回、それが地元に根付いたのかどうか真価が問われる演目だ。「キャンディード」、7回の上演である。席が埋まれば14000人の動員、オーチャードホールでの3回も加えると20000人が観ることになる。平日の昼間、休日の仕事の振替の休みを使ってカミサンと西宮へ。何と、満席、オークションで定価落札したぐらいだから、空きが目立つのではと思っていたのに。

ヴォルテール/パングロス博士:アレックス・ジェニングズ
 キャンディード:ジェレミー・フィンチ
 クネゴンデ:マーニー・ブレッケンリッジ
 オールド・レディ:ビヴァリー・クライン
 大審問官ほか:ボナヴェントゥラ・ボットーネ
 パケット:ジェニ・バーン
 マクシミリアン:デヴィッド・アダム・ムーア
 カカンボ:ファーリン・ブラス
 合唱:ひょうごプロデュースオペラ合唱団
 合唱指揮:矢澤定明
 管弦楽:兵庫芸術文化センター管弦楽団
 指揮:佐渡裕
 演出:ロバート・カーセン
 振付:ロブ・アシュフォード
 装置:マイケル・レヴィン
 衣裳:ブキ・シフ
 照明:ロバート・カーセン/ピーター・ヴァン・プレート

パリのシャトレ座、ロンドンのイングリッシュ・ナショナル・オペラ、ミラノのスカラ座を回った評判の演出だとは知っていた。へえー、スカラでこれを取りあげるんだ!と驚いたものだ。それが京阪神地区で観られるだけでもありがたいと私は思うが、「ウェストサイドストーリー」は知っていてても、「キャンディード」、何それ、というファンのほうが多いだろう。もちろん、カミサンもその一人、私は10年ほど前にびわ湖ホールで演奏会形式で上演されたのを聴いているが、そんなことを口に出したら「いったいどれだけ行ってるの!」と藪蛇は必定、ここは黙ってバルコニー席に座る。

いやあ、面白かった。同じく佐渡さんが指揮したびわ湖ホールでの上演とはまるで別物、全く退屈しない。ロバート・カーセンの才気溢れる舞台づくりに負うところ大で、お話としては支離滅裂で無茶苦茶と言ってもいい内容を、ここまで楽しませるのは大変なことだ。初めて聴いたカミサンも「とってもよかったわあ」と満足の様子。私にしても期待以上のものがあり、これまでの佐渡オペラでは最大のインパクトがあった。

ミュージカルなのか、オペラなのか、微妙な作品で、どちらでの上演も可能なんだろう。私の印象としては、オペラに大きく足を踏み入れたような感がありながら、双方の良さを並立させている希有な舞台づくり、音楽づくりだと思う。歌い手も二つの畑の人が混在する。聴くとすぐに、この人はこっち、あの人はあっちと知れる。ピットいっぱいの大オーケストラだから、歌い手は髪の生え際に目立たぬようにマイロフォンを貼り付けている。もちろん発声の違いもあるから違和感を覚えていいはずだけど、大して気にならない。舞台の転換に目を奪われ、踊りだ芝居だと、このあたりはミュージカルのてんこ盛りスタイル、ところがオーケストラで鳴る音楽はちゃちなものではないので、ミュージカルの域を超えている。オペラ系の人を揃えて完全アコースティックで上演することも可能だろうが、それだけの人材が揃うかという問題もあるから、ここらの折衷が妥当なのかも知れない。

1950年代のアメリカに舞台を設定しているようで、舞台の枠組になっているテレビセットや随所で流される映像もその時代を彷彿とさせるものだ。クネゴンデをマリリン・モンローに模したりといったところがあるかと思えば、突然時代が下って米英仏伊露の首脳のマスクをかぶったアンサンブルがあったりと、何でもありの様相。米国はオバマ大統領の顔だったから、シャトレでのプレミエのときから変えているのだろう。その後の事件を踏まえた置き換えは随所にある。第1幕の地震の場面で「神戸でもサンフランシスコでも、地面は裂ける」といった台詞があったが、文化村での上演ならいざ知らず、これは場所柄としては不適切な挿入、案の定、すべってしまい客席の反応は冷たい。時事ネタ、ご当地ネタ、ここらあたりが難しいところ。

ヴォルテール役の台詞が多く、上演時間は思いのほか長い。第1幕のテンポの良さに対比すると第2幕はやや冗長感がある。オペラとしての最終形が確定していない作品だということだが、後半の幕は刈り込む余地がありそうに思える。まあ、作曲者も亡くなって久しいし、今となっては如何とも。

このオペラ、ウエストファリア(Westphalia)という国が舞台のはずだが、オプティミズムを説くパングロス博士が黒板に書く綴りは Westfailure であり、演台のエンブレムでは WESTERN FAILURE となっている。このことひとつで作品の、演出の意図が知れる。東側も大差ないとは思うが、西側世界の不条理や人間性への疑問を投げかける。大団円は「僕らの畑を耕そう」と前を向いて終わるのだが、世界の醜悪さを暴くような物語の最後に、素直にそこに辿り着くとは思いにくいところもある。だからこの作品、拠って立つところは結局オプティミズムなのか。筆舌に尽くしがたいような酷いことがあっても、しぶとく生き抜くという登場人物たちの様子は作曲者バーンスタインの中に流れていた血の産物でもあるのかと、ふと思った。

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