アルミンク/新日本フィル定期のツェムリンスキー ~ 夏休みは終わり…
2010/9/2

演奏会のキャッチコピーが「結ばれることなき愛の相聞歌」、なんだか「馬から落馬」みたいな日本語でヘンな感じだが、もともとは恋する男女だけではなく、親子、兄弟、友人同士まで含んでいたから、ひょっとして歴史的な語意に立ち返ったのかも。こんなことが気になるのも、たまたま電車内のモニターに表示された「神社にお参りに行ったとき、最初にすることは?」というような常識クイズ、もちろん正解は「手水を使う」なのだが、何とご丁寧に「てみず」とふりがなを付けていたのに唖然としたから。首都圏で多数の目に触れることで、「ちょうず」と音便化する前の日本語の発音に逆流するかも知れない。

まあそんなことはどうでもいい。炎暑、猛暑のこの夏も終わりに近づき、音楽シーズンが始まる。今年の8月はコンサートもオペラもなく完全休養、メリハリがあるとも言えるが、それだけ夏枯れだったということでもある。これだけ暑いとコンサートどころではない。

ブルックナー:4つの管弦楽小品
 望月京:ニグレド
     (新日本フィル委嘱作品、世界初演)
 ツェムリンスキー:抒情交響曲op.18
   指揮:クリスティアン・アルミンク
   ソプラノ:カリーネ・ババジャニアン
   バリトン:トーマス・モール

キャッチコピーからして後半の抒情交響曲がメインであることは疑いない。ただ、売れっ子作曲家の委嘱作品が初演されるので、そちらへの興味もある。委嘱料の相場は知らないが、在阪のオーケストラの窮状を知っているだけに、やはり東京のオーケストラは豊かなのかなと想像する。もっとも、入りの良くないサントリーホールの客席を見る限り、財政状況の良し悪しは相対的なものに過ぎないとは思うが。

ニグレド、何のことかわからなかったが、プログラムや作曲家本人のプレトークなどで、これが錬金術において卑金属から貴金属に変わる前の混沌の状態をいうと知る。そんなタイトルを付けたら、作品自体がまがいものと見られるのではと心配するが、望月京(みさと)さんは意に介していないようだ。

凡俗の耳で聴く限り、前半はお化け映画かオカルト映画を観ていて、ヒロインが古い屋敷の中を歩むときに、そろそろ出るぞ出るぞと思わせるバックの音楽という雰囲気である。舞台の両袖、開いたステージドアの向こうに、上手にピアノ、下手にブラスが配されている大編成でありながら、音量はおそろしく抑制されている。フルオーケストラのクライマックスはない。ここらあたりはシベリウスの第4交響曲を思わせる。真ん中でオーケストラが少し厚くなった以降は、音楽の雰囲気が変わってオカルトからコメディの色彩も帯びる。現代音楽の多くに言えるように、ある種の映画に付けたらとても効果的だが、それだけ聴いてもねえというのが正直な印象だ。この人の「パン屋大襲撃」は面白く聴いたが、あれだって舞台があっての面白さであることは否定できないし。

このプログラムだと、ブルックナーの練習時間はほとんどないのではなかろうか。それが演奏からも聴き取れる。初期作品、複雑でもないし、短い曲が四つ、それぞれに何の脈絡もない小品である。これを取りあげる意味がどこにあるんだろうと思うし、クリスティアン・アルミンクがこの作品から聴くべき何かを引き出して提示してくれたとも思えない。演奏機会が少ないこともあり関心を持つブルックナーおたくが、一方の望月京を好んで聴くとは考えられないので、不可解な組合せである。定期演奏会だから聴衆の教化も重要な務めと音楽監督は認識しているのだろうか。

さて、抒情交響曲、マーラーの「大地の歌」に触発されて書かれた曲ということは知らなかったが、なるほど、聴けば明らかだ。二人の歌手が交互に歌い、題材は東洋の詩句という外観のみならず、音楽的な造りもあの作品を下敷きにしたよう。バリトンが歌う第5曲と第7曲など、「大地の歌」の第1曲と第6曲にそっくりである。インドの詩人タゴールに基づくものだが、字幕がないので歌詞の意味がわからない。プログラムには対訳はあるのだが、そんなのは暗い客席では役に立たないし、誰でも知っているような作品でないだけに、少しお金はかかっても字幕装置は必要だ。それこそ聴衆の教化に繋がる。

アルミンクという人の音楽づくりには静的な印象をいつも受ける。パンチがないというか、音楽の運びは冷静でしっかりと作られているのはわかっても、聴き手の心を捉える何かが欠けているような気がしてならない。このプログラムのどれをとってもそんな感じで、ツェムリンスキーでソロを歌った二人の歌手の印象とダブる。
 カリーネ・ババジャニアンとトーマス・モール、しっかりとした歌唱だと思うし、声もよく出る。曲に応じた表情付けもあるのだが、今ひとつ魅力に乏しい。その理由ははっきりしている。声に魅力がないのだ。同じ曲を同じように上手に歌って、心に触れるかどうかの違いは声自体の魅力があるか否かだ。簡単に言うとこの二人の声には色気がない。ドイツリートにしたってそうだが、やはり声そのものに惹かれないと物足りないし、まして相聞歌というならなおさら。新日本フィルをトリフォニー以外で聴くのは私は初めてかも知れないが、ここでなら響きかたが違うかと想像したが、アルミンクの印象はどちらも変わらない。

こういう現代物だと必ず足を運んでいた東京の友人の姿が見えないのが淋しい。まだ夏の盛りの暑さだけど、もう初盆も過ぎた。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system