キエフオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」 ~ 不思議な武蔵野
2010/11/5

「ボリス・ゴドゥノフ」の舞台を観るのは初めて。イタリアものやドイツものと違い国内団体が懸けることはまずないし、ロシア以外の来日オペラが取りあげることもない。となると、著名作品でも観たことのないものがいくつか残る。大きな期待はできないとは思いつつ、三鷹駅から北へ15分の道のりを辿る。

"OPERA NEWS"の9月号にルネ・パーペを外題役にメットでほぼ40年ぶりに上演される「ボリス・ゴドゥノフ」の記事があった。読んで面白かったのは、1913年のメットでの米国初演はイタリア語上演、数シーズン後のフィヨードル・シャリアピンを招いた上演ではボリスはロシア語、その他はイタリア語の上演だったということ。その後も偉大なバスたちがメットでボリスを歌っているが、エツィオ・ピンツァもイタリア語、ジョージ・ロンドン、チェーザレ・シェピ、ニコラ・ロッシ=レメニといった人たちは英語だったらしい。ようやく1974年のアウグスト・エファーディングのプロダクションでロシア語歌唱となったが、その後40年近い空白があって今シーズンのプログラムに登場ということだ。ことほど左様に、ロシア・オペラの他地域での上演には困難が伴うということかも。

ボリス・ゴドゥノフ:セルヒィ・マヘラ
 フョードル:テチアナ・ピミノヴァ
 クセーニャ:リリア・フレヴツォヴァ
 シュイスキー公爵:セルヒィ・パシューク
 ピーメン:タラス・シュトンダ
 マリーナ・ムニシェク:アッラ・ポズニャーク
 グリゴリー(偽ディミートリ):ドミトロ・クジミン
 ランゴーニ:イーゴル・モクレンコ
 ヴァルラーム:ボフダン・タラス
 ミサイール:ミコラ・シュリャーク
 聖愚者:オレクサンドル・ジャチェンコ
 ニキーティチ(警吏):ヴァシーリ・コリバビュク
 ミチュハ(農民):ペトロ・プリイマク
 宿屋の女主人、乳母:アンジェリーナ・シヴァチカ
 ウクライナ国立歌劇場バレエ団
 ウクライナ国立歌劇場合唱団
 ウクライナ国立歌劇場管弦楽団
 指揮:ヴォロディミル・コジュハル
 演出:ドミトロ・スモリチ
 美術:ミハイロ・ノヴァキフスキー

今回の来日公演、「アイーダ」、「トゥーランドット」、「カルメン」という全国巡業用とあわせて4演目、「ボリス・ゴドゥノフ」の上演は東京のみ、オーチャードホールと武蔵野市民文化会館の2回だけ。4つのうちから「ボリス・ゴドゥノフ」を一本釣りするところがいかにも武蔵野という感じ。文化村では空席が目立ったらしいが、ここでは完売・満席である。さすがに今回は「渋谷ならS席19000円、武蔵野では12000円」といった関西人顔負けのキャッチコピーはなかったが、「たった2回だけの上演のために、この大作を日本へ持ってくるキエフ・オペラのこの上演にかける意気込みは、ただならぬもの。乞うご期待!」というのはあながちオーバーでもない。それにしても、武蔵野の文字だらけのお馴染みのチラシ、光藍社の場末の映画館を思わせるチラシ、なんとも"丙丁"つけがたいセンスである。

いちおうCDは持っているので録音では聴いたことがあっても、舞台を観ると判るところと、それでもよく判らないところがある。リムスキー=コルサコフ版ということのようだが、耳慣れない部分はあるものの異同が識別できるほど聴きこんでいるわけではない。とても長い印象のあるオペラなのに、20分程度で幕が降り、場面転換が行われるので、私にはちょうどよいインターバルだ。各幕の場面がブツ切りになって感興を削ぐという不満はあろうが、仕事帰りに都心から駆けつけた人の途中入場のタイミングにもなる。

同じく歴史劇といっても「ドン・カルロス」のようにドラマが凝縮されたところはないし、多すぎる登場人物と話の隙間の多い場面展開に、正直なところ面食らうことが多い。なぜか「ホヴァンシチナ」は観たことがあるのだけど、あれも同じような印象だったなあ。それがムソルグスキーということかしら。

朝に奈良を出て都内で仕事、そのまま向かった武蔵野、ましてや馴染みのないロシア・オペラということで、居眠りが出ても不思議じゃなかったのに最後までぱっちり。こまめな休憩もあるし、舞台が近かったこともあるし、何より満員の客席のおかげか手抜きなしの熱演だったということが大きいのだろう。ボリスの子どもたちに光るものを感じた以外は、抜きん出た歌い手はいない。声はあっても歌唱力の点で見劣りしたり、その逆だったりとところ。オーチャードホールの公演とはボリスとピーメンが入れ替わったようだが、声の力の点でセルヒィ・マヘラは圧倒的とは言い難いものの、ボリスの怒りや苦悩などの表現には安定したものがある。大歌手がこれを歌ったらもっともっと深いものが出せるとは思うが、不満を言いつのるような出来ではない。

オーケストラは思ったより小振りである。武蔵野のピットに合わせたのだろうか。劇場を揺るがすようなパワーはないが、思いのほかしっかりした演奏だ。かといって指揮のヴォロディミル・コジュハルは思い切りメリハリを効かせるというところもなく、良くも悪くも座付き指揮者という印象だ。

戴冠式の場面以外は照明は暗め、きっと多数の場面の書割のみすぼらしさを糊塗する配慮かと思うが、あまり気にしてもしょうがない。酷いというほどではない。逆に言えば、こういう作品でもローカルな歌劇場で日常的に上演しているということだろう。その自然体のまま見られるというのは悪いことでもない。意外と言っては何だが、私は充分に楽しめた「ボリス・ゴドゥノフ」だった。

武蔵野市民文化会館、小ホールのリサイタルには何度か訪れたが、大ホールのオペラは初めてだった。なかなか不思議な客席である。都心から駆けつけたとおぼしき少数の現役世代のゴーアーたちを除けば、地元のオール・シニア、年金生活者が9割以上を占めていそうだ。この人たちは年に何度かの地元での舞台を楽しみにしているのだろう。自転車で帰る人の多いこと。公演にかかる冗費を省き料金はリーズナブル、もはや住民サービスのひとつとして位置づけているフシもある。こうしてお年寄りも家に籠もらないで外て楽しんでもらう。どんどん娯楽にお金を回して貯蓄を使い切ってもらう。もし生活費が不足するなら市が個人に対して不動産担保融資だってする(亡くなったら担保処分で市は潤う)。「子孫に美田を残さ(せ)ない」ことは、個人にとっても行政にとっても良いことだという思想が底流にありそうだ。そんな不思議な武蔵野。

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