新国立劇場「アンドレア・シェニエ」 ~ はじめての平日マチネ
2010/11/15

噂には聞いていたが、ちょっと変わった雰囲気である。新国立劇場の平日マチネ、まあ文楽など伝統芸能ではそれが普通なのだから、オペラとて同じ、勤め人だけを想定した公演のほうが異様なのかも知れない。8割以上は埋まった客席に若い人が少ない分、観客の平均年齢は上がる。紙袋のガサゴソ音や飴の皮むきのノイズは耳につかず、まずは一安心である。

面白かったのは、二幕ずつの上演で途中に一回という休憩のときだ。早いのだ。煙草を一本吸ってホワイエに戻ったら、飲み物を手にした人でテーブルが埋まっているが、バーカウンターは既に閑散としている。30分の休憩の10分も経っていないのに。そして、もう一本煙草を吸う時間があるなと思った開演10分前には、ホワイエには人の姿がほとんどない。教室で5分前には席に着くという教育が施された世代ということなんだ。勤勉で統制のとれた行動様式、昔の日本人の姿を見る思いがする。これは、そういう人たちが圧倒的多数を占める平日マチネならではの現象だろう。驚きである。

アンドレア・シェニエ:ミハイル・アガフォノフ
 マッダレーナ:ノルマ・ファンティーニ
 ジェラール:アルベルト・ガザーレ
 ルーシェ:成田博之
 密偵:高橋淳
 コワニー伯爵夫人:森山京子
 ベルシ:山下牧子
 マデロン:竹本節子
 マテュー:大久保眞
 フレヴィル:萩原潤
 修道院長:加茂下稔
 フーキエ・タンヴィル:小林由樹
 デュマ:大森いちえい
 家令/シュミット:大澤建
 合唱:新国立劇場合唱団
 合唱指揮:三澤洋史
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
 指揮:フレデリック・シャスラン
 演出・美術・照明:フィリップ・アルロー
 衣裳:アンドレア・ウーマン
 照明:立田雄士
 振付:上田遥

新国立劇場のホームページの「メインキャスト、公演への意気込みを語る!」という記事に、ノルマ・ファンティーニの「いつも新国立劇場に来るたび、我が家に帰ってきたような気持ちになります」というコメントがあり、思わず口元がほころぶ。そう、たぶんその理由の一つを知っている。来日中はあるファンの手作りのお弁当が届けられるのだ。草の根の繋がりは、強い。彼女はエレナ・ツィトコーワと並んで新国立劇場と強く結びついた歌い手だ。こういう人が増えていくことがオペラハウスの財産であると思う。

マッダレーナは掘り下げればずいぶん深みのある役だと思う。第3幕のシーンは、誰でもすぐに判るように、「トスカ」第2幕と双生児だ。情欲の化身となったジェラールが迫り、その大波が押し寄せるエアポケットに名アリアが挿入される。「母もなく」である。対となるのは言わずと知れた「歌に生き、愛に生き」である。ここでのマッダレーナのアリアの詞は重い。トスカの心情吐露が自身だけに終始した怨み言なのに対し、マッダレーナはトスカの位置から離れ、他者に思い遣るばかりか宗教的な境地に至る自己変革がある。これを短いアリアで表現しきるのは至難なこと、トスカだと単一の感情だけで済むから簡単である。それもあってか、プッチーニの曲はさらに短い。

ノルマ・ファンティーニにとって、ここはホームグラウンドと言ってもいいほどだし、手抜きなしの全力投球だったと思う。それは大変に気持ちがいいのだが、大らかな人柄もあるのだろう、あまり細かい表現は得意ではない。大味と言ってしまえば身も蓋もなくなるのでマイルドな表現が相応しいが、細部に至るまで考え抜かれた洗練された表現力という、現代の聴衆が求めるものとは微妙にずれているかも知れない。しかし、これがイタリアオペラの本来の楽しみ方と思ってしまえば、ちっとも疵ではないということになる。声の力でのカタルシスがあれば他に何を求めるのだということである。

マッダレーナに限らず、「トスカ」とは何かと対照的なオペラだ。プッチーニ作品の登場人物が単純でとても判りやすいのと違って、こちらの三人は遙かに複雑だ。時間の経過が二つのオペラでは全く異なるから当然とも言えるが、「アンドレア・シェニエ」では、ジェラール、マッダレーナは幕の推移とともに大きく変貌する。人間としての成長と言ってもよい。題名役もカヴァラドッシのような単細胞人間ではない。ジョルダーノの音楽が、それをどこまで表現できているかは措くとしても、歌い手にとってはやりがいのある役柄だと思う。

「トスカ」では個のぶつかり合いがオペラを動かして行くのに対し、「アンドレア・シェニエ」では個もさることながら、革命の奔流が個を押し流していくということにフォーカスがある。このプロダクションの新演出のときを観ていないので今回が初めてでも、フィリップ・アルローの演出の意図は明白だ。ギロチンの刃をイメージする斜めのモチーフの多用、群衆の無言の動きで語られる革命の負の部分のクローズアップ、目まぐるしい回り舞台の転回など、ややあざとさも感じつつ悪い演出ではないと思う。

シェニエを歌うミハイル・アガフォノフというロシア人テノール、声はガンガン出る風情でパワー的には問題ないが、ときにフッと声が引っ込んでしまうのにはあれっという印象だ。まあ、ソプラノとテノールが飛ばしてこのオペラの大詰めを迎えれば盛りあがることは間違いない。
 このシェニエという役、両端の幕に置かれた傑作アリアはイタリア語の生理を体得した歌手でないと不完全燃焼になる。今をときめくヨナス・カウフマンだってダメだ。ひとつの単語が次の単語に繋がりリズムが生まれ勢いを増していくという感覚は、声の明るさとともに、非ラテンの歌い手に求めても得られないものかも知れない。「五月の晴れた日のように」は、きちんと歌っていても一つひとつの単語が分断されていて如何ともしがたい。難しいものだ。

アルベルト・ガザーレのジェラールは、ちょっと意外な印象があった。聴かせどころの「祖国の敵」が、ずいぶん渋いのだ。メロディラインを強調するのではなく朗唱に近い表現、この人物の苦悩に焦点を当てた歌のように聞こえた。どちらかと言えば、暗さが前に出た歌いぶりで、イタリア人歌手のこういう歌と想像したものとずいぶん違う印象だ。このアリアのあとはオーケストラに埋もれて失速した感があったが、全体を通してみれば立派な歌だったと思う。

邦人歌手で固めた脇役は総じて好演、高橋淳のキャラクターテノールは相変わらず存在感があるが、密偵役にあの衣装はないだろうとも思う。まるで今はなき道頓堀のくいだおれ人形、ど派手な太い白黒ストライプのジャケットではねえ。それなりの演出の意図があるんだろうが、大阪の人間が見るとついそんなことを思ってしまう。

このオペラでは、かつてNHKで放映したプラシド・ドミンゴが歌ったウィーン国立歌劇場での録画の印象が強烈だ。第1幕の「ある日、青空を眺めて」のインパクトは絶大、いったい拍手が何分続いたのだろう。早世した山路芳久が修道院長で出ていたと思う。その後、アサヒビールがコマーシャルでドミンゴを起用し、歌はこれということ(もちろん別制作)もあった。

私にとって「アンドレア・シェニエ」は1995年10月の愛知県芸術劇場での公演以来だろう。たぶんナマで観たのもそのときだけ。往時のプログラムを引っ張り出したら、何とも凄いキャストである。ジュゼッペ・ジャコミーニ、レナート・ブルゾン、ジョヴァンナ・カゾッラ、残念ながら男声二人の印象は残っていないが、カゾッラのマッダレーナ、特に第3幕の「母はなく」が忘れられない。

ライブで観てからはや15年、もっと上演されてもいい作品なのに、意外に少ないのは「トスカ」のように普通に主役3人を揃えたら格好がつくオペラではないということかも。

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