新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 ~ 東西聴き比べ
2010/12/28

国内で年末にオペラに行くというのはたぶん初めてのこと。この時期、オーケストラも歌手も第九に掛かり切り状態だから、リハーサルの時間などを考えると公演自体が成立しないのだろう。そういう意味では、新国立劇場がワーグナーの大作を年末年始にぶつけたというのは国内の音楽界に一石を投じるどころか、大砲を撃ち込むほどの快挙だ。

トリスタン:ステファン・グールド
 イゾルデ:イレーネ・テオリン
 クルヴェナール:ユッカ・ラジライネン
 ブランゲーネ:エレナ・ツィトコーワ
 マルケ王:ギド・イェンティンス
 メロート:星野淳
 牧童:望月哲也
 舵取り:成田博之
 若い船乗りの声:吉田浩之
 合唱:新国立劇場合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
 指揮:大野和士
 演出:デイヴィッド・マクヴィカー
 美術・衣裳:ロバート・ジョーンズ
 照明:ポール・コンスタブル
 振付:アンドリュー・ジョージ

年を跨いで「トリスタンとイゾルデ」5公演、東京フィルにしてみれば、年末は「第九」、年始はニューイヤーコンサートと並行しての初台のピットである。しかも初日にいたっては、もうひとつの東京フィルがエッティンガーの指揮で盛岡で「第九」というのだから。桂冠指揮者の大野和士が指揮台に立つのでなければ、この公演は実現しなかったはずだ。そして、「トリスタンとイゾルデ」は全公演完売というのだから凄い。

やはり無理があるのはオーケストラの響きから窺える。東京フィルのレパートリーであるはずもない5時間近い作品、全部をさらうにはどうしても時間が足りない。大野さんの細かい指示に敏感に反応し弦楽器を中心に表情豊かな音楽を奏でているのだが、それが管楽器に受け渡されるところでバランスが崩れたり、流れを分断する平板なフレージングになったりと、不満に感じる場面が何度もあった。せっかくこれだけ力の入った演奏なのに、こうも足を引っ張られては気分の高揚にブレーキがかかる。

オーケストラも書き入れ時だから止むを得ないことかも知れないが、あくせく稼がなくてもよいNHK交響楽団か、大野さんとの共演では良い演奏を聴かせている東京都交響楽団がピットに入ってくれたらよかったのにと思う。来日公演の「ウェルテル」で、素晴らしく息の合った緊密な演奏を聴かせたリヨン歌劇場管弦楽団なら言うことないんだけど。今回の公演の一番の不満はオーケストラだけに、やはり年末年始の恒例公演が一段落した千秋楽が狙い目だったか。

第1幕、どうも音楽に入り込めなくて退屈である。主役たちが代わり番こに歌う前半部分は面白くない。ブランゲーネ役のエレナ・ツィトコーワなど、歌がオーケストラに乗れていなくて遊離した感じさえする。舞台は浅く水を張ったところに船が場面に応じて舞台前面に迫ってきたり、方向が変わったりするのだが、この船がとんでもないボロ船で、オランダ人もびっくり、かつての福建省あたりからの難民船かという感じだ。いまひとつの装置だなあと思いつつ観ているうち、イゾルデとトリスタンの対決の場面から音楽の密度が急に高まり、聴き応え充分となって眠気もすっかり消えた。そう、わざわざ東京まで聴きに来たんだもの。

それにしても、コーラスの動きは意味不明だ。上半身は裸の海賊まがい、イゾルデの言葉をトリスタンに伝えるブランゲーネを好色な目つきで取り囲むのはどういう趣旨か、クルヴェナールもその頭目のチンピラまがいのイメージで、ユッカ・ラジライネンの歌もなんだか軽薄である。びわ湖でこの役を歌った石野繁生さんに軍配をあげたいぐらい。そして、コーンウォール到着で水夫たちがプールに飛び込み踊り出す姿には、東京農大名物の「大根踊り」を連想してしまった。演出家はそんなことは知るはずもなかろう。これはもう一度観たら吹き出してしまうかも知れない。

第2幕、ここだけは新国立劇場の奥行きを活かした美しい舞台だ。上手奥に繋がる長い堤防状のセットでブランゲーネが見張の役をするわけだ。手前で恋人たちの愛のシーンが延々と続く。ステファン・グールドとイレーネ・テオリン、両者とも立派な体格なので互いに抱擁するというよりは、土俵中央でがっぷり四つという風情、音楽が長いとつい余計なことを思ったりする。しかし、歌唱はさすがの水準で、びわ湖のジョン・チャールズ・ピアースと小山由美コンビには貫禄勝ち。

そしてマルケ王の長大なモノローグ、びっくりするほどの老人にしていたから、イゾルデが相手にしないのは無理ないなあと思ってしまう。ギド・イェンティンスという歌い手は実は若そうだけど。これはとても難しい歌だ。マルケ王とアルプスの南北で対をなすような役柄はフィリッポ二世(「ドン・カルロ」)だけど、マルケ王の歌はフィリッポ二世の嘆きのアリアと続く宗教裁判長とのデュエットを合わせたほどの長さだ。しかも、ヴェルディの多彩な音楽に比べるとモノトーンで微妙なニュアンスを出していかねばならぬ困難さ。それは聴くほうにとっても同じ。飛躍気味の例えだが、デザインや色づかいが生命の洋服と、生地や仕立てに重きを置く和服の相違ということか。日本にワグネリアンが多いのはそんな文化の親和性も与っているのかも知れない。

第3幕、巨大な赤い月が舞台下手にかかる。イゾルデの船を待ちわびるトリスタンたちは、ずっと舞台前面に位置する。まるで幕の前で歌うような配置だ。そして船が着くわけでもなく、上手からイゾルデが歩いて登場するのは何とも拍子抜け、グレーのマントをはらりと落とすと真っ赤なロングドレスに変わる色彩は見事だけど。

このオペラはいずれの幕も終盤にしかドラマの大きな展開がない。あとはモノローグであったり、デュエットであったり、延々と登場人物の心情吐露が続いて演出家泣かせだ。第3幕もマルケ王と家臣が上陸して惨劇が起きるのは全体の長さからするとほんの一瞬だ。そのシーンのあとにようやく舞台の奥行きが使われる。家臣たち(ずっと海賊の格好)がゆっくり奥に消えていく動きはまたしても意味不明だが、幕切れの「愛の死」でイゾルデひとりが浮かび上がり、長いドレスの裾を引きながら奥に消えていくシーンはとても印象的だ。

「愛の死」はこんなに短かかったんだろうか。そう感じるほどイレーネ・テオリンの歌は素敵だった。幕前半のステファン・グールドの瀕死とは思えない声のパワーともども、声楽的には充実の第3幕だ。大したスタミナ、マラソンを走って40kmを過ぎてスパートするようなものだ。この二人の重量級、カーテンコールに姿を見せた大野さんがやや疲れ気味の表情だったのと対照的だった。

2回の休憩はいずれも45分間で、17時開演で終わりは23時近く。聴くほうのペース配分も大変だ。これだけインターバルがあると、混雑するホワイエを横目に劇場を抜け出し隣のハブで一杯やれるのはありがたい。しかも一度目の休憩だとハッピー・アワーに滑り込みだ。一時間半後にまた来るよと、今度はチケット提示の割引サービス。今日で仕事納めとおぼしきサラリーマンや、同じ発想のご同輩たちが入り交じった賑やかな年の瀬である。

     * * * * *

自分ではそんなに多くの公演に足を運んだつもりはないが、行くときは連日でということが多く、年間ではそこそこの回数になった2010年だった。
 今年の私のベスト10、明日考えたら、また違っていると思うが、ただいま現在の振り返りでピックアップすると次のようなところか。あくまでも私的チョイスであり、聴けてよかったと思った度合いの順位付けのようなもので総合評価ではない。トリノ歌劇場の両演目が入らないのは、期待度との兼ね合いかな。大阪での公演が一つだけというのは淋しい。

みつなかオペラ「マリア・ストゥアルダ」 (2010/9/19)
 これは掘り出し物。レアものという興味で出かけたのが、とんでもないことだった。

エリシュカ/東京フィルのチェコ・プログラム (2010/12/5)
 お馴染みの名曲がいままさに生まれるように響く得難い体験だった。

小山実稚恵デビュー25周年記念・協奏曲の夕べ (2010/9/3)
 コンチェルトもさることながら、「大学祝典序曲」の素晴らしかったこと。

兵庫県立芸術文化センター「キャンディード」 (2010/7/28)
 こんな無茶苦茶なお話を、あんなに見事に舞台化するとは、天才的な演出。

びわ湖ホール「ボエーム」 (2010/3/13)
 男声陣の低調さには目をつぶり、目から鱗、しかも納得性もあるという舞台の面白さ。

「パン屋大襲撃」 (2010/3/12)
 音楽だけでは成り立たない現代作品の宿命、いまだからこそ総合芸術なのかも。

あいちトリエンナーレ「ホフマン物語」 (2010/9/18)
 題名役は期待はずれでも、女声陣の頑張りで見応えは充分だった。

広上淳一/アリス=紗良・オット/京都市交響楽団定期 (2010/7/17)
 素晴らしい技術、伸び盛り、これは評判どおり。協奏曲の名手がサポートすれば万全。

新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」 (2010/12/28)
 回を重ねるほどにどんどん良くなることは見えているが、年初の東京行きの予定はない。

びわ湖ホール「トリスタンとイゾルデ」 (2010/10/10)
 センチュリー響がよくぞここまで、ことオーケストラの緊密性ならこちらが上回る。

さて2011年、オペラの来日ラッシュで財布の底が抜けてしまいそう。どうしたものか…

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system