フェドセーエフ/兵庫PACオーケストラ定期 ~ 根付くシステムとその限界
2011/2/5

毎月の定期演奏会、一つのプログラムで週末三日連続のマチネ、なのに大ホールは満員、そんなオーケストラが国内で他にあるだろうか。PACは所詮アマチュアオーケストラに毛の生えたようなものとの声もあるが、この動員実績を目にすると、声を失うオーケストラ関係者も多かろう。西宮は大阪を挟んで住まいからは逆方向なので、私が聴く機会はせいぜい年に一度か二度、逆にそれ故に、このオーケストラのコンセプトと活動が地元に受け容れられ着実に音楽ファンを増やしている変化に気付く。2005年の創設だから、まだ10年も経っていない。しかし、石の上にも三年とはよく言ったもの、その倍の年月が経過しているのだから。

会場でもらったチラシには今夏の「こうもり」もあった。日本語上演なのにオルロフスキーをヨッヘン・コヴァルスキーが歌うということは、日独チャンポンか。イーダに剣幸というキャストは、ついに阪急今津線コラボが実現ということか。強気の8公演だが、完売するだろう。

3年で奏者は入れ替わるのでオーケストラの個性というものはない。個性のないことが個性と言えばそのとおりで、若さと無国籍というところが個性かも知れない。世界に門戸を開いてオーディションを経て集めていて、表面的な技術面では問題なくとも、音楽的には疑問なレベルの奏者も混じっている(もちろん、そうでない人もいる)。人が替わってその部分が良くなったり悪くなったりと目まぐるしい。

今回の定期演奏会のコンサートマスターは東京フィルの荒井英治氏、フェドセーエフがこのあと東京に回って東京フィルとの定期演奏会が組まれているからだろう。ここは奏者育成のためのオーケストラだから仕方ないにしても、コンサートマスターがいないということは、オーケストラの個性が生まれようもない。

モーツァルト:交響曲第40番ト短調K550
 チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調op74「悲愴」
  指揮:ウラディーミル・フェドセーエフ
  管弦楽:兵庫芸術文化センター管弦楽団

巨匠という言葉がチラシに踊っている。でも、聴いているとごく普通の演奏だし、何度聴いたか判らない曲に新しい発見があるわけでもない。モーツァルトは眠くなるような演奏だった。確かに、チャイコフスキーでは、第一楽章展開部の鋭い切り込み、第二楽章の中間部からの戻りのところの音の重ね方、第三楽章の畳みかけるような盛り上がり、終楽章の毅然とした終結とか、なるほどと思わせる部分は随所にあるにしても、曲全体を通しての感銘は得られない。オーケストラの問題だ。
 指揮者との相互のインスパイアがあって演奏の密度がどんどん濃くなるという瞬間が訪れない。それがこのオーケストラへの不満ということになるだろう。一定のベースというか個性があるオーケストラなら客演指揮者との組合せで何が生まれるか楽しみになるが、そこのところから造り上げるとなるとねえ、という感じ。

とまあ、すれた音楽ファンは憎まれ口を叩くわけだが、ちょっと今までのクラシックコンサートと違う客層でホールは埋まっている。「悲愴」第三楽章が終わると一人や二人でない拍手が起こる。実に素直な反応だし、そういう人たちも含む裾野の広がりが生まれている。しつこくプログラムに客席マナーについて書いているからか、以前に比べるとずいぶん良くなったと感じる。わずか1000円のチケットなのに、プログラム冊子も充実している。全く読む(見る)に値しない大阪フィルのプログラムとは天地の差がある。こんなことも含めた総合力、周りは固まってきた、あとは肝心のオーケストラ本体のレベルアップだ。

これが、今年初めてのコンサートだから、例年に比べると出足が遅い。年末の「トリスタンとイゾルデ」以来、大野和士さんに合わせて休養していたわけじゃないけど、1月は完全オフになってしまった。年央から始まるオペラ三昧に備えて節約モードでもある。

西宮北口駅に向かうペデストリアンデッキで奇妙なものを見かけた。人だかりができていたので何かと覗いてみると、こんなところにウサギ、いやよく見ると…。ホールで飼っているんじゃなさそう。後日、西宮の住人に聞いたらマフラーを巻かれたりして駅周辺でときどき出没するらしい。ブリュッセルの小便小僧じゃないけど、飼い主のおもちゃにされてネコも大変だ。

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