児玉宏/大阪交響楽団/モーツァルト/糀場/ロータ ~ 畑を耕す
2011/3/17

金曜日、翌日の福島での仕事に備えて仙台に飛ぶ予定だった。大阪でもかなりの揺れを感じたが、新幹線は止まっても空路なら行けるだろうし、中通りだったら津波の心配もないだろうと、伊丹に向かった。空港に着くと仙台便はもとより、東北各地、羽田便までキャンセルだ。出張は取りやめ、予定の仕事も中止、うちに戻ってテレビを見たら、凄まじい地震の被害に声を失う。仙台空港も瓦礫に覆われている。何ということ。

週末をはさんでその後の経過は見てのとおり、甚大な地震・津波の被害もさることながら、福島の原子力発電所はまるでダモクレスの剣のようだ。こんなときに自分の畑を耕すことでよいのかとの気持ちは拭えないが、日本全国が冷静さを失ってはどうしようもない。幸い京阪神では東京で起きているような買いだめ行動はない。そして、予定どおりオーケストラの定期演奏会も開催される。ニノ・ロータ生誕100年「愛のカンツォーネ」とのサブタイトルが付いている。

モーツァルト:交響曲第35番ニ長調「ハフナー」K385
 糀場富美子:「-古えの堺へ-百舌鳥耳原に寄せる3つの墓碑銘」(初演)
   "Sakai~Immemorial~Three Epitaphs of Mozu-mimihara"
     (大阪交響楽団創立30周年記念 堺をテーマとした委嘱作品)
 ロータ:交響曲第4番「愛のカンツォーネに由来する交響曲」(日本初演)
      指揮:児玉宏(音楽監督・首席指揮者)
      管弦楽:大阪交響楽団

大阪交響楽団(旧称:大阪シンフォニカー交響楽団)は今回の被災地とは縁があるとのことだ。2007年に文化庁の「本物の舞台芸術体験事業」で青森から福島まで、各地の小中学校で演奏し、その14か所には大船渡、名取、南三陸、石巻など、この数日ですっかり耳に馴染んでしまった地名が並ぶ。シンフォニーホールのホワイエでは募金、黙祷のあとコンサートが始まる。プログラムのせいだけではなさそう、客席の入りはずいぶん少ない。

この日はオーケストラの満30年だそうである。「ハフナー」は第1回定期演奏会の曲目らしい。こんなときに聴くからなのか、舞台からの響きにはニ長調の活気や祝祭的な雰囲気がないのに驚く。聴く側も演奏する側も人間、ライブの演奏というものはこういうものなんだろう。いつも聴き流すことの多いモーツァルトだけど、なんだか真剣に耳を傾けた。こうして音楽を聴いていられる幸せを感じる。生活物資の次には避難所の体育館で生演奏を聴かせて欲しいと言っていた人の気持ちがわかる。音楽は決して不要不急のものではない。

何で堺をテーマにした委嘱作品なのかと思ったが、大阪交響楽団の楽団所在地が堺だった。うちのカミサンは堺の人間、高校の先輩には与謝野晶子、後輩には澤口靖子と、まああまり関係ないが、糀場作品のモチーフとなった百舌鳥古墳群はカミサンの実家の近所なので、いったいどんな曲なのかと興味が湧く。

20分足らず、5つの部分で構成され、仁徳、履中、反正の三人の王をイメージしたもののようで、プログラムに作曲者が表現意図めいたことをかなり詳しく書いている。その点では標題音楽と言ってもいいものだ。前日には平成の玉音放送が流れ、陛下の慈愛に満ちた言葉を耳にして、よくぞと感じ入ったものだが、古の王たちは骨肉相食む激しさであったことは歴史が示すところ、ここで登場する三王にして然り。フルオーケストラで奏でられる音楽も強烈な響きを伴う。編成は多少のエキゾチックな打楽器があるにしても特殊なものではなく、総体としては標準的なものに近い。しかし、響きに関しては管楽器やハープの特殊奏法で西洋音楽とは異質な響きを創出しているし、その部分と伝統的西洋音楽の語法が不連続でなく繋がっているのは並々ならぬ才能だと思う。借り物ではなく自らの語法として確立している強さを感じる。後述のニノ・ロータと対照的である。

こちらもたぶん初演なんだろう。ニノ・ロータの交響曲第4番。先日、びわ湖ホールで某音楽関係者と在阪オーケストラの話題になり、「何と言っても児玉宏/大阪交響楽団のプログラムがユニークさで群を抜いていますねえ。私は児玉さんの変態プログラムと呼んでいますけど…」と言ったのだが、その変態プログラムが気になって時節柄もわきまえず聴きに来たのである。

とてもわかりやすい音楽だ。だが名曲かと言うと、これがなくても一向に困らないという作品だろう。この人の映画音楽が時代の記憶としてかけがえのないものであるのとは次元が違う。

ものの見事に形式を遵守している。第1楽章は絵に描いたようなソナタだ。第2楽章はA-B-A-B-Aだし、第3楽章は三部形式、終楽章はロンド。教科書的なソナタでは二つの主題のせめぎ合いが全く感じられず、並置しただけのような印象だ。いずれの楽章も旋律は美しい。しかし、ベートーヴェンに始まり、ショスタコーヴィチに終わる、作曲家が過剰なまでに全身全霊を注ぎ込んだ交響曲の系譜に属するものではないと感じる。形式とのコンフリクトがなく、安定的な枠組に依存して流れる音楽、時代の精神を反映したものでない故に、無視されてしまう運命にあるのだろう。まあ、音楽体験に何を求めるかということだから、いろいろな聴き方があって当然だし、児玉さんがこういう変態プログラムに固執するのも一元的な価値観の怪しさに一石を投じてやるという信念からなんだろう。

糀場作品を除けば、期待したほどのものではなかったので、早々に会場を後にしたが、最後に震災の犠牲者追悼のためにG線上のアリアが演奏された模様。お亡くなりになった方々のご冥福を謹んでお祈りしたい。

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