藤岡幸夫/関西フィル/V=ウィリアムズ/吉松/チャイコフスキー ~ 時節柄?
2011/3/19

友人が行けなくなって回ってきたチケット、木曜日に続きシンフォニーホールに向かう。三連休の初日なのに心なしか街中の人出は少ないようだ。交通機関も空いている。それでも会場はほぼ満席に近い。家に籠もっていても仕方ないというところか。

ヴォーン=ウィリアムズ:トマス・タリスの主題による幻想曲
 吉松隆:トロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」作品55
 チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
  独奏:風早宏隆(トロンボーン)
  指揮:藤岡幸夫
  管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団

もともと予定のプログラムとはいえ、悲愴交響曲とは何というタイミングだろう。第3楽章の凶暴さは、否が応でも今回の大災害と重なる。続く終楽章の慟哭は言わずもがなである。銅鑼が静かに鳴り、弦楽器が高声部から低声部に移りゆき、コントラバスのピツィカートで消えゆくように終わる。何度聴いたか判らない曲だけど、特定事象と結びついて耳に届くという経験はなかったこと。むろん標題音楽ではないし、いろいろな聴き方があるにしても、会場のほとんどの聴衆は同じ思いだったのでは。最後の音が消えたあとの長い沈黙がそれを裏付けているかのようだ。

藤岡さんが関西フィルの定期で初めて振ったのがこのシンフォニーだったらしい。初心に帰る特別な曲とのことだが、まさかこういうシチュエーションになるとは思っても見なかったろう。それもあってか、後半の二つの楽章は出色の出来である。技術がどうのこうの、解釈がどうのこうのではなく、ストレートに気持ちがこもっている。舞台と客席が同じ気持ちを共有する特別な機会だったのだろう。

あまりにも重苦しい終結だから、少しでも心を温めて帰ってほしいということで、異例のアンコールとして弦とホルンによる「ロンドンデリーの歌」。どうなんだろう、私はそんな必要はないと思う。悲愴交響曲は確かに暗い終わり方だけど、気持ちが沈むときにはヘンに明るい曲ではなく、とことん滅入るような曲を聴いたほうが気分が晴れるように思う。これに比べりゃまだマシか、ではないが、ボトムに達すれば後はリカバリーあるのみなんだし…

前半のヴォーン=ウィリアムズは癒し系の音楽で、これも時節柄にぴったりという感じ。弦の小規模アンサンブルをオーケストラと対置して遠近感を出すという構造だ。同じく構造的な工夫が施されたのが吉松作品、打楽器群と金管の対置がきっとそういうコンセプトで前半のプログラムを組んだんだろう。

「オリオン・マシーン」は時節柄とは言い難い、どちらといえば軽いノリの曲だ。前に聴いた吉松作品でもジャズふうになるところがあったが、そこだけ浮いた感じがしてしまい曲全体のコンセプトがあやふやになる。それだけジャズのイディオムは自己主張が強いということか。

トロンボーン協奏曲なんて初めてだが、独奏楽器として聴くと難しい楽器だなと思う。目盛りがあるわけでないから音程は勘だし、管のスライドはグリッサンドには適しても、ピタッと音を決めるのは至難とくる。風早さんは西宮の教育オーケストラを卒業して関西フィルの首席に招かれた名手のようだが、前半はややもっさり感があった。後半のカデンツァあたりから調子が出てきて尻上がり、終わりよければという感じの演奏だった。拍手の後にチューバ奏者が一人出てきたので、おやっと思ったら、「アメイジング・グレイス」をアンコール、トロンボーンとチューバにピアノが加わった演奏だった。きっとこれは時節柄の選曲なんだろう。

木曜日の大阪交響楽団と同じく、関西フィルも募金活動を行っていた。私はタダのチケットだったので応分の義捐金をボックスに。しばらく公演会場ではこういうことが続くのだろう。

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