児玉宏/大阪交響楽団のまたまた変態プログラム ~ ミャスコフスキーとは
2011/5/10

児玉さんが楽団のホームページやプログラムに書いているメッセージがすこぶる面白い。変態プログラム(私が勝手にそう呼んでいるだけだが)の名に恥じない。ミャスコフスキーの交響曲第24番の演奏譜探しの顛末、ドイツ、ロシアと出版社や知人を辿って入手、そして日本初演である。次はどんなのをやるんだろうと我々が見ている楽屋裏の事情を窺わせる。今回の定期演奏会のキャッチコピーは、忘れられた作曲家"ミャスコフスキー"。

R.シュトラウス:交響的断片「ダナエの愛」作品83
 R.シュトラウス:交響詩「死と浄化」作品24
 ミャスコフスキー:交響曲第24番ヘ短調作品63
   管弦楽:大阪交響楽団
   指揮:児玉宏

プログラム前半はリヒャルト・シュトラウスの作品でも演奏機会が多いとは言えない2曲、最初のものはクレメンス・クラウス編のものなので、レアものの範疇だろう。「死と浄化」はまあまあの知名度なので、前半だけなら普通に近い。ところが、聞いたこともない名前の作曲家の作品がメインプログラムに堂々と座るのが児玉流だ。しかしよく見ればヘ長調作品63とあるから、これが第二次大戦中の作曲でスターリン時代のソヴィエトであれば、泣く子がさらに泣くアヴァンギャルドということでもなかろう。知る人は少ないがまあ聴きやすい作品を紹介するというあたり、変態プログラムとはいえ児玉さんは常軌を逸しているわけではない。もっとも、客席の入りは悪く、オークションで安く入手したA席招待券で引き換えたのは1階中央の後方、目の子6割ぐらいか。

今ひとつ厚みやパワーに欠ける印象があった大阪シンフォニカー時代のことを思うと、編成を増したシュトラウスではずいぶん立派な音が出ている。児玉さんの音づくりは割とすっきりさっぱり系、もっとシュトラウスの絡みつくようなねちっこさが出てもいいと思うのだが、そうはならない。これはこれで、好みの人もいるだろう。

さていよいよミャスコフスキー、シュトラウスを聴いた後なので、冒頭いきなりホルンが高らかに鳴り響くと「ばらの騎士」かと錯覚しそう。ところが、その導入部は再現するわけでもなく主部と全く繋がりを持たない。景気のよい出だしとそのあとの違和感が残る。事前の知識が何もなくても第1楽章は伝統的ソナタの枠の中にあることが判る。
 第1主題はどこかロシア民謡風のメロディで、続く第2主題はこれと対置するというよりも近親性・同質性の強いもので、コントラストが弱い。これもシュトラウスの後だから余計に感じるのだが、楽器もパターンもたいした変化はなく展開部、再現部に進んで行き、素材をそのまま放り出した感がある。アレグロ・デチーゾ、断固としてこのテンポでやるという意味じゃないが、そんな変化のなさも感じた。いろいろな食べ方があっていいが、料理として見るなら稚拙と言ってもいい。プログラム前半とほとんど同じオーケストラの編成なのに、作曲家の技量の差が歴然としている。

第2楽章がもっともよく出来ている音楽だと思う。エレジー風の緩徐楽章、息の長いメロディが徐々にクライマックスに向かっていく楽想、児玉さんの演奏はここでもすっきり系なのだが、もっと下品にえぐく盛り上げるほうがいいんじゃないかな。傑作と言うには躊躇するような作品だと、指揮者が好き放題やるほうが楽しめる気がするが、児玉さんはそこまでの外連味はない。

第3楽章はソナタかロンドか判然としないが、ワンパターンな繰り返しの印象があり今ひとつ。どうもミャスコフスキーという人は、速い楽章は不得意なのかも知れない。交響曲を27曲も書いたということだから、ベートーヴェン以来のスタンダード(?)の3倍である。徹底的にこね回し練りあげるという作曲法ではなかったのだろう。その分、マーラーやショスタコーヴィチあたりと比べると、ずいぶんと自己主張が希薄に感じる。

さすがに珍品の演奏なのでNHKのFM収録が行われていた。そしてこれまでの例にもれずCD化もされるようだ。予備知識なしに一度聴いただけの感想なので、コメントが的確なのかどうかは自信がないが、中らずいえども…とは思う。次の変態プログラムにもきっと行くだろう。

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