名古屋国際音楽祭のバルバラ・フリットリ ~ 忘れ物を探しに
2011/6/22

まさに名古屋弾丸ツアーである。東京からだと苦しいが、大阪からだとそれが可能。名古屋のみでリサイタルがあることは知っていたものの、急に行く気になったのはメトロポリタン歌劇場来日公演でフリットリのエリザベッタが聴けなかったから。ひょっとして歌ってくれないかなあと淡い期待を抱いて名古屋へ。

ビゼー:「カルメン」前奏曲
 ビゼー:「カルメン」より“何を恐れることがありましょう”
 ビゼー:「カルメン」第三幕への間奏曲
 グノー:「ファウスト」より「宝石の歌」
 マスネ:「タイス」より「タイスの瞑想曲」
 マスネ:「タイス」より“私を美しいと言って”
    * * *
 ヴェルディ:「運命の力」序曲
 ヴェルディ:「運命の力」より“神よ平和を与えたまえ”
 ヴェルディ:「アイーダ」前奏曲
 ヴェルディ:「アイーダ」より“おお、わが故郷”
 プッチーニ:「マノン・レスコー」間奏曲
 プッチーニ:「マノン・レスコー」より“この柔らかいレースに包まれても”
 プッチーニ:「蝶々夫人」より“ある晴れた日に”
    * * *
 プッチーニ:「トスカ」より“歌に生き、愛に生き”
 カタラーニ:「ワリー」より“さようなら、ふるさとの家よ”
   ソプラノ:バルバラ・フリットリ
   指揮:ケリー=リン・ウィルソン
   管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

結局、エリザベッタはなかった。それはそうだろう。アンコールに歌うにしては終幕のアリアはあまりに重い。無理なくこなせるピースになるのは致し方ない。どれも素晴らしかったが、唯一アイーダに疵があっただけに、これをエリザベッタに差し替えてくれたらよかったのにとは結果論。

名古屋国際音楽祭は予定の4公演が震災でキャンセルになったらしく、まさに壊滅的だ。フリットリのリサイタルがただひとつの華という感じ。それにしては入りはあまりよくない。上階は空席のほうが多い。それでもコンサートが進むにつれてだんだん熱気を帯びてくるのはプリマドンナのオーラだろう。前半はフランスもの、後半はイタリアものと、はっきり分かれたプログラムで、もちろん後半が盛り上がったのは言うまでもない。

私がもっとも素晴らしいと感じたのは後半の最初に歌ったレオノーラのアリアだ。フリットリよりもっと厚みのある声を想定したアリアだとは思うが、彼女はパワーよりも表現力で聴かせるという歌いぶりだろう。エリザベッタの延長線にはこの役もあるのだろうか。フレーニと同じ軌跡ということになる。フリットリ、声のコントロールが見事なのはどの曲にも当てはまるが、この曲ではことさら見事。綺麗によく伸びるピアニシモ、fatalitàと三回繰り返すところの変化、最後のmaledizioneのところではオーケストラを圧する威力はないのに、そのオーケストラに包まれて声が届くという類なさ。このアリア、どこもかしこも、Brava !

金髪、長身、痩躯、まだ若い女性指揮者のケリー=リン・ウィルソンは後半開始の序曲では前半とは打って変わった充実ぶりだ。ただ元気よくさっさと進めた「カルメン」前奏曲などは全然違う。オーケストラも後半になってエンジンがかかって来た模様だ。アイーダのアリアでは久しぶりに元大阪フィルの加瀬さんのオーボエを聴く。何となく懐かしい。このアイーダ、フィニッシュのところ、フリットリにして声のコントロールを失うところがあった。どの声域でも均質な音色を保つ人にしては珍しいこと。これが唯一の疵と言えば疵。

プッチーニ、このレベルの歌手になると短いアリアを完璧に歌うことなど造作もないように思える。もちろん、そんなことはなく、本当は難しいのだろうが、全くそう感じさせない。マノン、蝶々さん、トスカ。プッチーニでこれまで聴いたのはミミだけだったが、どれも通して聴いてみたいと思わせる歌唱だ。前半のフランスものも悪くない。イタリア語の美しさに比べると、言葉のキレが及ばないのは仕方がないが、それを補って余りあるデリケートでメリハリある表現だ。

18:45開演、20:40終演、これはオーケストラの日帰りスケジュールに合わせたものだろう。オーケストラだけのナンバーは拍手もそこそこに指揮者がフリットリの手を引いてアリアに誘うというパターン。帰りの新幹線の時刻もあるのだろう。おかげで当方も楽々と日帰りとなる。乗り継ぎもよかったので京都にのぞみが着いたのは21:40、北山のコンサートホールからの帰りと大差ない。時間を金で買う。交通費で懐は痛んだが、それだけの値打ちはあったリサイタルだった。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system