新国立劇場「イル・トロヴァトーレ」 ~ 生への回帰を
2011/10/2

ここ何年か新国立劇場のシーズンのオープニングを観ている。今回は「ロベルト・デヴェリュー」を観に東京まで足を運んだのだから、ついでと言っては何だが、奇しくも連日のカンマラーノ作品、こちらも観なければということに。
 開演の15分ほど前に初台に着いたが劇場の前は閑散としている。あれっ、シーズン初日なのに、やけにひっそりしているなあと思ったが、中に入ると客席はほとんど埋まっている。日曜日のこと、出足がずいぶん早いのだろう。

レオノーラ:タマール・イヴェーリ
 マンリーコ:ヴァルテル・フラッカーロ
 ルーナ伯爵:ヴィットリオ・ヴィテッリ
 アズチェーナ:アンドレア・ウルブリッヒ
 フェルランド:妻屋秀和
 老ジプシー:タン・ジュンボ
 イネス:小野和歌子
 使者:渡辺文智
 ルイス:鈴木准
 合唱:新国立劇場合唱団
 管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
 指揮:ピエトロ・リッツォ
 演出:ウルリッヒ・ペータース
 美術・衣裳:クリスティアン・フローレン
 照明:ゲルト・マイヤー
 舞台監督:村田健輔
 合唱指揮:三澤洋史

冗談や洒落を言ったあと、ご丁寧にそれを説明する阿呆を見るような演出だった。幕に描かれたものはブリューゲルの「死の勝利」のモノクロ複製である。幕が上がるとルーナ伯爵の配下の兵士たちは顔を覆う骸骨を摸した白いマスク、このオペラが「死」をモチーフにしたものであるということを言いたいんだろう。さらに、死神と、焼かれたアズチェーナの子どもらしい亡霊が各幕に登場するばかりか、死神はルーナ伯爵に止めを刺そうとするマンリーコの剣を防いだり、レオノーラに花束を渡したりと、登場人物に絡んだりする。それらは意味不明の動きで鬱陶しいことこの上ない。おまけに、各幕の初めには字幕で何だかんだと「死」が支配する云々といった能書きまで出している。挙げ句、とうとう「死の勝利」なんて言葉まで字幕で出すに及んで、大阪弁で言うなら「アホちゃうか」である。判らない人にギャグを説明して、そこで判ったとしても笑ってもらえるわけじゃない。そんなことをする人間は逆に失笑を買うだけ、世間では当たり前の常識が劇場では通用しないらしい。下流無粋の演出である。

演出がこのドラマを「暗い」、「陰惨だ」と、そちらの方向に誘導することにあくせくすればするほど、ヴェルディが書いた「イル・トロヴァトーレ」の音楽の輝かしさとの乖離が際だつ。観客・聴衆にそのギャップを意識させることも演出家の意図なら、それなりの意味はあるかも知れないが、そこまで考えちゃいないだろう。オペラの舞台、ときに素晴らしい読み替えなどがあるにしても、それは少数のこと、総体として見れば新演出は死屍累々ではないだろうか。まさに幕に描かれた絵を地で行っている。

うざい舞台は見ないようにして歌だけを聴く。演出のコンセプトに沿ったものなのか、暗めの声の人たちを集めたようなところもある。代役となったタマール・イヴェーリの声だけが、やや明るさを持つので彼女の良さが際だつ。登場のアリアのカヴァティーナではあまり声が出ておらず不安な立ち上がりとなったが、その後は彼女らしいくっきりとした歌のフォームを取り戻した。デズデモナを歌ったときにはホワイエに栃ノ心らグルジア出身力士の応援団の姿があったが、今回は見かけなかった。先日のカルメンもこの国の人だったし、人材が豊富なのかな。

ピエトロ・リッツォという指揮者、ちょっと独特のものがある。ここのピットで聴く東京フィルの音にしてはずいぶんクリアで勢いのある音を引き出すのは買える。一方であのカヴァティーナの極度に遅いテンポには驚く。レオノーラの最初のアリアでの違和感は、ルーナ伯爵でもマンリーコでも同じ、いっぱいいっぱい限界まで引き延ばしたようなテンポで、よくまあ破綻なく歌い切れたものだと主役歌手たちには感心する。立派だ。カバレッタとの対比は当然の帰結として明瞭に付くわけだが、それがいいのか悪いのか、聴いていてちょっとヒヤヒヤするところも。

フラッカーロはよくわからないテノールだ。この人は数年前のスカラ座オープニングの「アイーダ」でのロベルト・アラーニャ事件の直後にラダメスを歌ったのを聴いた。あの落ち着かない状況の中で無難に勤め上げるだけの実力がある一方、絶対的な魅力があるかと言うとどうかな。声に破綻はないしアクートも決める。ツボはきっちり押さえるのだが、どうも中身でいい加減なところがある。独特の引っかかったような発声で言葉の不明瞭さもあるし、音程の怪しいようなところもある。一切合切込み込みで合格点をクリアするといったタイプなんだろう。劇場ではOK、でも録音で起用するかとなると疑問符という歌手なのかも知れない。まあそういう歌手のほうが多数派ではあるけれど。

ルーナ伯爵のヴィットリオ・ヴィテッリは演出のせいなのか、もともとの声質なのか、この役柄の二面性、ノーブルさよりもアクの強さが前面に出た歌だ。アズチェーナのアンドレア・ウルブリッヒはあまり存在感はないが歌自体はしっかりしている。フェルランドの新国立劇場第一バス妻屋秀和は正真正銘のシーズンオープニングのアリアだから緊張したのか、第一幕の聴かせどころで生彩がなかった。その後はよく声も出たので残念なことだ。

なにぶんに初日、新国立劇場の常としてこれから回を重ねるごとにアンサンブルはよくなるかも。この日も第3幕のルーナ伯爵とレオノーラのデュエットなど後半に行くほど良くなっていたし。

シーズン初日だからと言ってチケット代が跳ね上がるでもなし、格好に気を遣うこともないし、普通に観られるのが新国立劇場のいいところだ。これは考えようによっては大変ありがたいこと。これでオープニングの新演出が生への回帰を謳いあげるものであれば、ずっと相応しかったろうに。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system