大阪クラシック「究極(9曲)のベートーヴェン!!」 ~ 大アレグロ大会を聴く
2012/9/5

大阪弁で言うなら「けったいな企画」、「おもろそうやんけ」と聴き行くほうも聴きに行くほうで、昨年比4倍(500円→2000円)の入場料にもかかわらずシンフォニーホールは立ち見も出る大盛況。この時季の恒例となった「大阪クラシック」第52公演である。

ベートーヴェン:交響曲第1番~第9番 各第1楽章
 大阪フィルハーモニー交響楽団
 指揮:大植英次

ベートーヴェンの交響曲全曲を一挙に演奏するという試みは故岩城宏之氏がやったのが国内では最初と記憶する。ところが、第1楽章のみを一挙にというのはどうも本邦初らしい。第5番と第6番の間に休憩を挟み2時間、普段の定期演奏会より開始が30分遅い19:30からなので、終了は21:30、いつもの大阪クラシックの公演よりも拡張版だ。そりゃ昨年比300%アップ、定期演奏会の安い席よりも高いのだもの、それぐらい当たり前という声も聞こえてきそうだ。補助金削減で自立を余儀なくされつつあるオーケストラだし、需給バランスによる料金設定ぐらい柔軟にやっていくべきなんだろう。

大植さんは指揮棒なし、そのぶん指揮台での動きがいつもより大きい。小さくかがみ込んだり各パートの出を細かく指示したりと、舞台横の2階バルコニーからだと表情の豊かなことがよく判る。音楽監督の頃には体調不良で演奏自体も低調な時期もあったが、ずいぶんと元気だ。休憩があってもその間はトークで埋めてしまったので指揮者だけは休憩なしだ。タフなものだ。

9曲、しかも第1楽章のみを続けて聴くと、ベートーヴェンという作曲家の軌跡がよく判る。言わば、アレグロ楽章の書法百科、ソナタ形式の解体的発展への道筋みたいなものだ。私には第4番と第5番と続くところがとても面白かった。第4番はこの日の演奏の中でも白眉だと思うし、ベートーヴェンがここで完璧な序奏~ソナタ主部を創りあげたことに感嘆する。序奏とはこうあるべきとの、それこそ究極の姿じゃないのかな。

第4番でこういう完成度の高い音楽を書いてしまったら、次には大胆な変革しかあり得ないというのが第5番だろう。これまでに書かれた音楽とは異次元の荒々しさ、エネルギーの噴出、一分の隙もない構成、これだけ聴いても名曲だけど、9曲の流れの中に置いて演奏されるとその特質が一層顕著になる。

後半よりも集中力が切れない前半のほうが良かったのは間違いないにしても、細かなことには拘らず飛ばした後半も躍動感が伝わってくる。アンコールには第7交響曲の終楽章あたりを持ってくるのではと予想したが、見事にハズレ。パーカッション奏者などが現れて何をやるのかと思ったら、パート譜を裏返した最終ページだった。第9交響曲の気違いじみたコーダの最終部分、なるほど、そういうことか。このイベントはお祭りみたいなものだし、「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」が相応しいかも。

休憩時のトークで大植さんが面白いことを言っていた。今日のベートーヴェンの第5交響曲は自筆譜に基づく初演かも知れないということ。つまり、オリジナルでは冒頭主題の繰り返しは同じ長さであり、4小節目の二分音符などはどこにもないというものだ。いつか誰かが書き加えたもので、オリジナルでない演奏がこれまで綿々と続いていると。

真偽のほどは何とも言えないが、誰でも知っているような箇所なので話題になるにしても、同じような話はいくらもある。よく知られた曲では、次の箇所などもその一例だろう(「椿姫」のヴィオレッタのアリア)。こちらも2回のフレーズの繰り返し、二度目は十六分音符だから最初よりも短く歌うというものでマリア・カラスの録音などでははっきりと聴き取れる。しかし、原典では同じ長さだと聞いたことがある。繰り返し演奏される曲ほど、演奏者の解釈で違う表現になることは普通だ。そもそも芸術である限り全く同じに繰り返すことなどはあり得ない。それが解釈の範囲で記譜されずに終わるか、一歩踏み込んで書き替えてしまうかの違いだろう。

第3交響曲については一時は標題としたEroicaというのは、男性の名詞についてなのでEroicoとするのが妥当というようなコメントがあったが、ちと面妖なこと。ドイツ語のSinfonieは女性名詞だと思うし、そもそもこれはSinfonia eroicaというイタリア語。何か大植さんの勘違いなのか、この人は勢いよく沢山のことをしゃべろうとして、音がいっぱい脱落する話し方なので非常に聞きづらいから、話の細部を確認できないということが起きる。あの話し方でリハーサルで意思疎通できるのかなと気になるが、きっと言葉以外の全身から発散するメッセージで伝えてしまうと人なんだろう。それも指揮者には必要な才能だと思う。

大植さんのトークの中でベートーヴェンに限らず偉大な作曲家と日々接することができるのは大変幸せなことだという趣旨の言葉もあった。同じようなことを、別の指揮者が述べているのを読んだことがある。

「わたしたち指揮者は、天才と接するとても大きな特権をもった小さな人間であるだけなのです。これを知ったら、わたしは偉大な精神の忠実な僕でなければ…」(レンツォ・アッレーグリ「音楽家が語る51の物語」小瀬村幸子訳)

これは、カルロ・マリア・ジュリーニの言葉である。

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