びわ湖ホール「椿姫」 ~ ヴェルディイヤーなのだから…
2013/3/9・10

春にヴェルディ、秋にワーグナーという今年のびわ湖ホールのプロデュースオペラ、両巨人の生誕200年を意識したもので、ホワイエには二人の作品年表のパネルも置かれている。そこには日本初演びわ湖ホールの誇らしげな文字がいくつも並んでいる。若杉弘氏が音楽監督の任にあった期間に連年で成し遂げた偉業と呼んでもよい上演だった。記念の年なのだから、「レニャーノの戦い」など、まだ残っているヴェルディ国内未上演作品を取り上げてもよさそうなのに、最も上演回数の多い「椿姫」というのは少し残念だ。集客のこともあるのだろうけど。

初日は好天、二日目は雨、対照的な天候となった両日の公演を聴いた。ダブルキャストを聴く楽しさ、同様の知人の顔もあり、幕間にはあっちはどう、こっちはどうとの比較談義に花が咲いた。これもオペラの醍醐味かな。

ヴィオレッタ:安藤赴美子/砂川涼子
 アルフレード:フェルナンド・ポルターリ/福井敬
 ジェルモン:上江隼人/黒田博
 フローラ:谷口睦美/小野和歌子
 ガストン子爵:大槻孝志/与儀巧
 ドゥフォール男爵:加賀清孝/北川辰彦
 ドビニー侯爵:山下浩司/斉木健詞
 医師グランヴィル:森雅史/鹿野由之
 アンニーナ;山下牧子/与田朝子
 ジュゼッペ:山本康寛/村上公太
 合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団
 管弦楽:京都市交響楽団
 指揮:沼尻竜典
 演出:アルフォンソ・アントニオッツィ

「椿姫」というオペラはヴェルディの作品の中で極めて特殊な位置づけにあると思う。同時期の代表作のヒロインと比べるとヴィオレッタは全くの別人だ。ジルダ(「リゴレット」)やレオノーラ(「イル・トロヴァトーレ」)は言ってみれば単純である。彼女らの性格やら思い、少なくともオペラの中で示される感情のベクトルは単一方向を向いている。しかるに、ヴィオレッタは比較にならぬほど複雑だ。享楽的な生活と真摯な愛との間を揺れ動くという境遇もさることながら、各幕で表す心の動きの振幅はとてつもなく大きい。それを考えるとヴィオレッタを歌い演じるということはソプラノにとって至難の技に近い。逆にそれが成し遂げられたときの感銘度は比類のないものだ。

今回の二人のヴィオレッタ、舞台映えのする容姿という点では共通するとしても、歌唱は対照的だったと言える。「よくやっているけど、砂川さんはいっぱいいっぱいという感じ」というのが知人のコメントだったが、私は砂川さんを買う。意見が分かれることになったが、ヴィオレッタという役に何を求めるかという違いかも知れない。

確かに声楽的には安藤さんのほうが安定していると思うし、破綻なく歌いきるというだけなら充分なのだが、私はその先を求めたい。この人の場合、綺麗にアリアをまとめているのに、レチタティーヴォ、シェーナ、アンサンブルといったところで、テキストや音楽に込められた意味の重さをどれだけ認識しているのだろうと疑問に感じることが多々あった。つまり、繋ぎの部分にさっぱりドラマが感じられない。

この逆が砂川さんである。舞台上のヒロインへのシンパシーを客席に感じさせる歌唱表現がこちらにはある。第1幕のカバレッタあたり、今回が初役のはずの砂川さんとしては限界に近い領域になると思うし、ミミやリューというイメージだった彼女としては大いなる挑戦でもあったはず。ここさえ乗り切れば以降の幕は彼女の本領発揮となるし、事実そのように進んだと思う。テキストとの連動なのだろう、意外なほど強いフォルテが随所にあり、これまでの彼女とは違う一面が出ていたようにも思う。

要は何を重視してオペラを観るかなのだが、他のヴェルディ作品ならともかく、こと「椿姫」に関しては、表面的な声楽としての安定度、完成度より先のものが必要というのが私の価値観ということになる。舞台で演じるロールとして、生身の人間を感じられるかどうかが感動の有無に直結する。その意味でも特殊なヴェルディ作品という所以だ。

二日目、テノールが酷いというのが先の知人のコメントで、それには声を合わせて同感。日本の第一人者というふうになっている福井さん、オテロなどを歌うようになって歌が壊れてしまっている印象だ。2幕2場のカタストロフィーの部分は何とか聴けても、それ以外は惨憺たるもの、スカスカのソットヴォーチェ、メロディラインを破壊する無用な力み、これは相当の重症ではないかな。何でも歌いすぎということもあるだろう。自分を見失ってしまっている。NHKの正月番組の録画を聴いたときの落胆を思い出す。あのときは、オテロ登場のシーンはともかく、はじめに歌ったアンドレア・シェニエのアリアは全く歌の体をなしていなかった。それと同じことがびわ湖ホールの舞台で再現された感じだ。もともとイタリアものにぴったりの歌い方ではないにしろ、大津でヴェルディの初演をいくつも歌った頃はこんなことはなかったのに。本人が自覚していないのなら周りの誰かが言ってあげたらどうか。たぶん業界の近いところにいる人は言葉を使い分けするのだろう。外野からの「王様は裸だ」の声は届かないのか。これからも諸役の予定が入っている人だから、何とか立ち直ってほしいものだ。

と、二日目のテノールのことばかりになってしまったが、初日のアルフレードも褒められたものではない。声はあるのだが歌い方がアバウトでディクションのキレもない。わざわざ海外から呼ぶような歌い手ではない。

皆の評価が異論なく一致したのは、ジョルジョ・ジェルモンの上江さんだ。二日目の黒田さんはパワーがあるものの、歌の端々の丁寧さがなくて雑だったのに比べると、上江さんの歌はフォルムが全く崩れることがない。ベルカントの美声を堪能できる数少ないバリトンだ。これで黒田さんほどではなくとも、もう少し声量があれば世界中で活躍できる逸材なのに、世の中なかなかうまく行かないものだ。

今回の演出は現代に近い設定のようだ。前奏曲の途中で幕が開き、ストップモーションで固まった客間の人々の間を縫ってヴィオレッタが男の手を引き階段を登って二階に消える。コーラスの演技はあまり熟れていないので、相当な乱痴気騒ぎなのに伝わり方は弱い。何しろ隅のほうではフローラが脱ぎ捨てた靴に酒を注いで飲み干すなんて、露骨な性的表現まであるぐらいなのに。ともあれ、高級という感じよりも薄汚れた売春宿という様子、シチュエーションと真面目な演技者とのギャップがあって可笑しい。

2幕2場ではバレエは登場せず、闘牛士の歌のところでは客人たちが短編映画を映写するという趣向になっていた。

終幕では舞台中央に横たわるヴィオレッタが二人、起き上がって歌うヒロインと終始横たわったままの黙役、おそらく魂と肉体が分離して、ということだと思われる。幕切れ近くには集まった人々が徐々に舞台奥の壁際に退き、臨終で駆け寄るのは舞台前面のヴィオレッタではなく、中央の亡骸。

こうした目を引く箇所はいくつかあったが、私の印象に残ったのは2幕2場のカタストロフィーの際のヴィオレッタの扱い方だ。普通の演出だと札束を投げつけられたヒロインが床に崩れ落ち気を失うということになるが、この演出ではアルフレードがChe qui pagata io l'hoとヴィオレッタの手を取って札束を押しつける。ヴィオレッタは手は開いたまま札が床に舞い散る。そこまでは普通にしても、彼女は倒れることはなく、放心したように屹立したままで、このカップルが大人と子どもであることを露わにする。私が強い印象を受けた箇所だ。

今回のコーラスは演技のウエイトが大きかったせいもあるのか、やや雑な感じも受けた。オーケストラは京都市交響楽団、沼尻さんの指揮でよくあるヘンなところで管楽器のフレーズがバランスを崩して突出するところがあったものの、まずまずの演奏かな。歌を台詞を聴かせるべきところでオーケストラが暴走するという悪い癖はずいぶんと影を潜めた。彼がオペラの経験を積んできた証ということかな。秋には今回とはオーケストラが替わり、日本センチュリーと神奈川フィルの合同演奏、果たしてどういうことになるのだろう。それと件のテノールがジークムント、期待と不安の「ワルキューレ」の予定が入っている。

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