フェニーチェ歌劇場来日公演「オテロ」 ~ 再開!大阪国際フェスティバル
2013/4/11

オテロはデズデーモナじゃなくて演出家の首を締めるべきだなあ。主役三人がとても良かったのに演出が足を引っ張った感じ。舞台や音楽への集中を殺ぐことおびただしいものがあった。これじゃ演奏会形式のほうが楽しめたと思う。とは言えオテロ役のクンデは期待以上の歌唱、この人はペーザロのロッシーニ・フェスティバルの日本公演で同名役を歌った人、ロッシーニとヴェルディの両オテロを歌った人は他にはいないのではないかな。

オテロ:グレゴリー・クンデ
 デズデーモナ:リア・クロチェット
 ヤーゴ:ルーチョ・ガッロ
 カッシオ:フランチェスコ・マルシッリア
 モンターノ:マッテオ・フェッラーラ
 エミーリア:エリザベッタ・マルトラーナ
 ロデリーゴ:アントネッロ・チェロン
 フェニーチェ歌劇場管弦楽団・合唱団
 合唱指揮:クラウディオ・マリノ・モレッティ
 指揮:チョン・ミョンフン
 演出:フランチェスコ・ミケーリ

建て替えのため長い間ホールがなくても、その不在をあまり感じなかったのは、大阪国際フェスティバルが過去の栄光を失っていたせいだろう。ホールは老朽化し、国際フェスティバルとは名ばかりというのが閉鎖前の様子だった。そしていよいよ再オープンの秋が来た。こけら落としはフェニーチェ歌劇場の来日公演だ。

京都での仕事を終えて阪急電車に飛び乗る。梅田からは地下鉄で一駅、歩いても間に合いそうなので堂島の地下街を行く。中之島の手前で地上に出ると渡辺橋の向こうに新しいビルが聳えている。四つ橋筋に面したメインエントランスから大階段がホールに続く。以前よりも広く、すっきりとした印象だ。ビルの三階がホールの一階ということにになる。

ホワイエの照明がかなり暗い。吹き抜けのライトが星を摸したようなので、それに合わせて照度を落としているのかも。着飾ったレディには残念なところかも知れないが、夜目遠目ということもあるから一概には言えないぞ。

私が観たのは三階席、リノリュウムだった床は木目のフローリングに替わり、背もたれの後にも頭の高さまで木が配されている。もっとも、客席のレイアウトは昔のイメージのままだ。横幅の広い三層の客席、左右の壁にくっついた二人掛けのボックス席、オールドファンには懐かしいのだろうが、前と同じように造るのが果たして良かったのかなあ。特に今回のようなオペラになると、音が拡散してしまう印象が拭えない。びわ湖ホールや新国立劇場で観る機会が増えただけに尚更そう思う。

さて、演奏に戻ると、クンデのオテロというのはドミンゴのそれに近い気がする。激情的に声を張りあげるのではなく、内面の感情をしっかり歌で伝えるというアプローチだ。それでいて声の力に不足はなく、とても立派なオテロで私はとても気に入った。マッチョ一辺倒だと出だしは良くても、幕が進むにつれて聴く側が主人公から離れていく。彼のオテロはその反対、ドミンゴもそうだけど、客席にいてムーア人の将軍との距離がどんどん縮んでいく。

デズデーモナを歌ったのは、クンデと同じくアメリカ人のリア・クロチェット、まだ若い人のよう。体型や容姿でハンディキャップがあるものの、声は素晴らしいものがある。カーテンコールで大きな歓声があったのも頷ける。いささか太りすぎで、存在感はあっても舞台映えはしないから、逆に歌唱に見るべきものがあっての起用ということなんだろう。ヴィジュアル指向が顕著なだけに、オペラ歌手も大変だ。

ルーチョ・ガッロのヤーゴは新国立劇場でも聴いているから二度目になる。あのときも軍人でありながら武断派ではなくもっぱら奸計を巡らす悪魔的人物としてオテロとの対比が際だつ役作りだったと思うが、今回も同様、さらに進化している感じだ。今回の歌手が三人ともいいというのは、ドラマにのめり込みすぎての音楽からの逸脱がないこと。変に小細工しなくてもきっちりと歌えば自ずとドラマは生まれるしヴェルディやボーイトはそれだけの作品に仕立て上げている。

そのあたりのことが全く解っていないのが演出家だ。フランチェスコ・ミケーリという人、アバドの息子もそうだけど、よくまあこの程度で大劇場の舞台を任されるものだ。それだけイタリアには才人が枯渇しているのだろうか。

星座を描いた紗幕、舞台上には同様に星座が描かれたキューブ、これはオテロの居室になっていて、回り舞台で場面転換を繰り返す趣向。第2幕では舞台進行とともに何度も回るので見ていて煩わしい。音楽への集中を妨げる。第1幕冒頭の嵐のシーンでは荒波に翻弄される帆船はただの小さな模型で人が捧げ持って揺らしている。この模型は金色や赤色のものをコーラスが各人手に持って登場する場面もその後にあり、いったい何を意味するのやら。第1幕の喧嘩騒ぎのシーンは兵舎のつもりなんだろう、白い軍服を着たコーラスが運び込まれた多数のベッドで枕投げを始めたり。まるで修学旅行の中学生のよう。そのベッドを出したり片付けたり、いったいどういうつもりなんだろう。

第2幕のヤーゴのクレードでは何人かのバントマイムのが歌手に絡みつく。悪魔の視覚化なんだろうが邪魔でしかない。同じパターンはオテロに対しても繰り返される。こちらは猜疑心の表象のつもりか。そんなものを出す必要がどこにある。馬鹿な演出家の力を借りずともリブレットとスコアにみんな書いてある。とまあ、せっかくの歌い手の好演を台無しにしかねない傍若無人さを感じた私。それで冒頭のコメントとなる。

終幕、殺害されたデズデーモナがいつの間にか立ち上がり、自刃したオテロに寄り添う。と、今度はオテロも立ち上がり幕切れでは二人して歩み去る。これはどういうつもりか解らないが、もう歌は終わったあとなのでとやかくは言わない。問題はそれまでの猿知恵のような顛末、演奏会形式で歌を堪能したあとの舞台だっただけに余計に後味が悪い。

他のキャストではカッシオを歌ったフランチェスコ・マルシッリアも悪くない。だから、返す返すもあいつのせいでという思いが強くなる。ピットのチョン・ミョンフンを聴くのは「シモン・ボッカネグラ」、「蝶々夫人」以来の三度目だが、思ったほど熱くないのが意外だ。まさかこれも演出家のせいではないだろうけど、ピットのときは結構燃える人だと思っていたが。このオーケストラ、それに輪をかけてコーラスは正直なところ一流とは言い難い。特に後者は新国立劇場のそれと比べるとかなり見劣りする。

そんなことで、第51回の大阪国際フェスティバルが開催に至ったのは慶賀としても、あれが何とかなったらというのは残念なところ。折しも、大気汚染(?)で中国公演がキャンセルになったおかげでスカラ座の「アイーダ」大阪公演が正式に発表された。これがメジャーなオペラの空白地帯となっていた大阪の復権に繋がればいいなとは思う。

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