びわ湖ホール「ワルキューレ」 ~ ブーイングは面白さの証明
2013/9/21・22

大津駅から県庁前にだらだらと下って行く道路の端には先日の台風の泥が少し残っている。京都地下鉄東西線は復旧したが、京阪電車の京津線はまだ不通だ。湖岸にも台風の名残の漂着物が浮かんでいる。とは言え無事にプロデュースオペラは開催された。

神奈川県民ホールとの共同制作、今回は横浜のほうが先になる。なので一週間前の公演の反応が耳に入ってくる。演出の評判が良くない。ちょこちょこと舞台転換をするので気が散る、音楽に集中できないという類のものが多い。一方で、歌い手は概ね好評。それはそれ、何だかんだと言ったところで、自分の耳と目で確かめるしかない。

ジークムント:福井敬、望月哲也
 フンディング:斉木健詞、山下浩司
 ヴォータン:青山貴、グリア・グリムズレイ
 ジークリンデ:大村博美、橋爪ゆか
 ブリュンヒルデ:横山恵子、エヴァ・ヨハンソン
 フリッカ:小山由美、加納悦子
 ゲルヒルデ:田崎尚美、岩川亮子
 オルトリンデ:江口順子、増田のり子
 ワルトラウテ:井坂惠、磯地美樹
 シュヴェルトライテ:金子美香、三輪陽子
 ヘルムヴィーゲ:平井香織、日比野幸
 ジークルーネ:増田弥生、森季子
 グリムゲルデ:杣友惠子、小林久美子
 ロスワイセ:平舘直子、渡辺玲美
 管弦楽:日本センチュリー交響楽団+神奈川フィルハーモニー管弦楽団員
 指揮:沼尻竜典
 演出:ジョエル・ローウェルス

ダブルキャストが上手く組まれている。この人とこの人を組み合わせたらと思うのに大概はきっちり分散、どちらも一定の集客が見込めるようにとの苦心の跡が窺える。かくして私のように両日とも観るしかないという人間が増える。それも計算のうち、プロデューサーの腕の見せ所でもあろう。キャスト表の前者が土曜日、後者は日曜日。私の結論を言えば、フンディング、フリッカ、ブリュンヒルデ、うちブリュンヒルデだけでも逆であれば日曜日を観るだけで良かった。まあそれは結果論だけど。

輝かしい声への喝采とは裏腹に、ジークムント役の福井敬さんはヴォータンの台詞のように自縄自縛に陥っていると思う。ワーグナーではイタリアもののときほどは気にならないにしても、力ずくの歌でメロディラインを台無しにする愚から抜け出せないでいる。昔、この人が「マイスタージンガー」でワルターを歌った頃はこんなことは無かった。福井さんは初日のキャストでただ一人浮いた存在になっており、この楽劇のなかで異質だ。古い時代のワーグナー歌いには確かにこんなタイプはいたけれど、今は別の審美眼を持つ人が増えていると思う。福井さんが心配したとおりの結果なら、二日目の望月哲也さんは、こちらの心配を吹き飛ばす若々しくて滑らかなジークムントだった。この人もイタリアものでは首を傾げることがあるだけに、杞憂に終わり、慶賀。ワーグナーといえど基本はベルカントなのだから。

同じようなことがブリュンヒルデを歌ったエヴァ・ヨハンソンにも言える。圧倒的な声量、パワーで押しまくるという感じで、かえって表現の平板さを感じる。私は横山恵子さんを買う。例えば第2幕、死の告知に訪れたのにジークムントの情熱に絆され、ヴォータンの命に背き彼を救うことを決断するに至る感情の激しい変化、人格の変容さえ感じさせる歌唱の凄さは力業だけでは無理なこと。

ヨハンソンとヴォータン役のグリムズレイの第2幕の対話の場面を聴いていると、小声で訥々とした調子で語り始めるヴォータンが、幕の終わりに向けてあたかも長い長いクレッシェンドで歌っていくのに対して、ヨハンソンはまるで一本調子に聞こえる。この場面のグリムズレイが見事で、対置されると損な面はあるにしても。ブリュンヒルデについては終幕のパワー全開の局面でもその印象は同じだ。こうなると何をもって歌を評価するのか、翻って自身の尺度を自覚する始末だ。

両日のキャスト、福井さんを別とすれば(この人だって私が拒否反応を起こしているだけかも)、目立った穴がない。斉木健詞さんのフンディングは不気味さ、凄みがあって出色だったし、青山貴さんのヴォータンも見事、いずみホールの「シモン・ボッカネグラ」でパオロ・アルビアーニの素晴らしさに驚いたのは間違いではなかった。もちろんグリムズレイに一日の長があるのは否めないが。大村博美さんと橋爪ゆかさんは、それぞれの個性が出たジークリンデだったし、同じことはフリッカの小山由美さんと加納悦子さんにも言える。聴き比べの楽しさここにありか。

第1幕13、第2幕12、第3幕5、締めて30、何のことかというと、各幕の場面数。あまりの転換の多さに驚き、二日目に指折り数えてみた。暗転や背景装置の入替もあるが、多くは幕を下ろしての舞台転換である。すごい、こんなの見たことない。しかし、ワグネリアンと呼ばれる人たちはお気に召さない模様、演出家へのブーイングはそんな信者によるのかも知れない。賛否両論の噴出する演出は成功である。私はこれは見事なアイディアだと思う。音楽が途切れるどころか、歌の無い部分の繋ぎの音楽、それがまた雄弁、がじっくり聴けるというメリットさえある。何より、長いひと幕が退屈しない。転換のタイミングも極めて妥当だ。コラージュ、モンタージュ、フラッシュバックなど、映画の手法がずいぶんと取り入れられている。大きなノイズも無く瞬時にそれを可能にするびわ湖ホールの舞台機構も凄い。幕を下ろしたときに投影される場面のドイツ語・日本語のタイトル、「ジークリンデ」、「逃亡」、「兄と妹」、「告知」…は余計だと思うが。

この演出には細かなところで訳のわからない部分がある。横たわったトネリコの木に刺さったノートゥンクは何故か日本刀だし、フンディングはピストルでジークムントを撃とうとする。ブリュンヒルデもジークリンデも分身らしい少女が黙り役で登場する。先述の字幕ともども説明過剰な感があり、無理に視覚化しなくてもいいのにと思う箇所だ。逆に卓抜な発想と思えたのは、ヴォータンの家庭が冒頭および幕切れに出てくること。そこにはジークムントも登場する。「ワルキューレ」は既に「神々の黄昏」であることをこれほど明確に示しているシーンはないだろう。ヴォータンはこのドラマで完全に破綻してしまう。この物語に至るまでの非行の数々に加え、唯一の理解者だったブリュンヒルデの離反、挙げ句の果てに子からも妻からも疎外され、居場所を失いさすらい人となるしかない必然が、ここで見事に視覚化されている。自業自得、自縄自縛と言えばそれまで。自分勝手極まりないとはいえ、ある意味では自由を希求しながら挫折するしかない姿に、客席の側が色々なものを投影して観る聴くというのはワーグナーの毒でもあろう。演出家としても様々な思いつきを試せる余地が大きいし、観客とともに遊ぶ自由があるとも言える。例えば、第2幕のヴォータンとフリッカの対決の場面、「ドン・カルロス」のフィリペ二世と大審問官の場面が思い浮かぶ。あっちは全盲、こっちは隻眼、介添えが必要か車椅子で済むか、要素はバラバラにされてはいるが、演出家はきっと意識しているんじゃないかな。そして、一つのグラスの水をこの二人が飲むシーン、フリッカが残りを飲まないでヴォータンにぶっかけるところは「アラベッラ」のパロディではないかな。フリッカは婚姻を司る神らしいし…

びわ湖ホールのピットの大きさの制約があるのだろうか、2団体によるオーケストラは意外に小ぶり、弦楽器の本数が少なそう。沼尻さんが「ワルキューレ」のオーケストラに求めたのがクリアな響きということなのだろう。日本センチュリー交響楽団と神奈川フィルハーモニー管弦楽団ということになっているが、実態としては前者に後者の奏者がエキストラ見合いということで入ったものらしい。ハラハラするような金管楽器の音が何度も聞こえるが、どちらの団体の人であれ全曲を演奏するのは初めてだろうし。

そういうことを気にしなければ、厚ぼったく重々しいワーグナーではなくて、この「ワルキューレ」は清々しいワーグナーであり、二人の歌い手が異質であったとしてもトータルとしては沼尻さんのアプローチは成果を挙げたと思う。

14時開演、19時終演、5時間オペラに通うのは非日常の極み、終わったあとも旨いものを食べて飲んでとハレの日とはこういうもののか。数日前の台風とは打って変わった快晴の湖国の二日間だった。

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