びわ湖ホール「リゴレット」 ~ 逸楽のテノール
2014/10/11

大型台風が近づく三連休、空模様にはそんな気配はないが大津祭の人出も心做しか少ないように見える。びわ湖ホールでは沼尻竜典オペラセレクション「リゴレット」が連日上演される。まだヴェルディの未上演作品が残っているとは言え、集客のことを考えると若杉時代のような初演シリーズという訳にはいかないようだ。

公演のチラシ

リゴレット:堀内康雄
 ジルダ:幸田浩子
 マントヴァ公爵:福井敬
 スパラフチーレ:斉木健詞
 マッダレーナ:谷口睦美
 モンテローネ伯爵:片桐直樹
 ジョヴァンナ:小林久美子
 マルッロ:清水良一
 マッテオ・ボルサ:二塚直紀
 チェプラーノ伯爵:津國直樹
 チェプラーノ伯爵夫人:澤村翔子
 マントヴァ公爵夫人の小姓:鈴木愛美
 合唱:藤原歌劇団合唱部
 管弦楽:日本センチュリー交響楽団
 指揮:沼尻竜典
 演出:田尾下哲

堀内康雄さんのリゴレットはまだ聴いたことがないので、初日のチケットを確保したものの、懸念材料ははっきりしている。公爵が足を引っ張るのではないかというのが、それ。大きくて強い声を出せば出すほど、日本を代表する(?)テノールの歌は劣化していく。びわ湖ホールの来春のプロデュースオペラ「オテロ」のタイトルロールにも起用されている福井敬さん。既に東京ではムーア人役をやっているが、この将軍に手を出す以前からその傾向は見えていて、ここに至って耳を覆うばかりの惨状が露呈している。声を張ることに専念するばかりに、メロディラインは崩れ、前後の音程が怪しくなる。勝手なテンポでオーケストラとのずれも甚だしい。オテロとマントヴァ公爵では全く違うスタイルなのに前者の調子で何でも歌ってしまう泥沼に嵌っているように見える。オテロにしたって、ドミンゴ以降、力ずくの役柄でないことが証明されているのに。この人、ここびわ湖ホールで「スティッフェリオ」を歌った頃までだったような感がある。今回の公演キャストはオーディションを経て選ばれたのではなく、知名度や人気度を勘案して集められたようだが、もうこの人は外してほしい。来春の東京二期会の「リゴレット」からこの人の名前が消えているのは見識なのか、たんにびわ湖ホールの「オテロ」と時期が重なるだけなのか。

この公演、何人かの友だちと一緒に観たのだが、他のことはともかく公爵については見事に意見の一致をみた。こんな素人にも判ることを何故周りの人たちは指摘しないのだろうか。音楽評論家と称する人たちは陰で批判はしても、狭い世界の中であからさまに苦言を呈することを控えてしまうのだろう。それで行けば、一番の責任者は苟も芸術監督という立場にある人だ。この人がきっちりコントロールしないと。本来あるべきテンポやフレージングを滅茶苦茶にして歌手に奉仕する必要がどこにある。例えば、第2幕冒頭の公爵のアリア、前半のしっとりと聴かせるカンタービレと後半の浮き立つようなリズム、声を張りあげるほどにヴェルディの書いた音楽のエネルギーが失せ聴くに堪えないものになる。芸術監督よ、あなたはただの棒振りではないはず、その肩書に値する目配りが必要だ。オペラを台無しにしかねないキャストを組む愚を肝に銘じてほしい。

ここまで辛辣な言辞を弄するなら、端から行かなければいいのにとは自分でも思うが、いつもながら2日間のキャスト配分の巧妙さには感心する。堀内さんは聴きたいけど…ということなのだ。ホールが出来たときから足を運び、多くの初演作品を歌った福井さんの功績を評価するだけに、今の姿が残念でならない。二代目芸術監督にしても初代と同様、イタリアものを本来得意とする人ではない。近時は積極的に舞台に掛けるのはよいが、どこまで作品に切り込む気持ちがあるのか。この人にも気合いを入れ直してほしいものだ。

公爵のバッラータで始まるオペラ、そこで味噌をつけてしまっては後が大変だ。堀内さんの歌にも伝染したのか、どことなく重いし、力みが見える。堀内さんの持ち味であるヴェルディバリトンの美しいレガートも影を潜めている。まさか、藤原歌劇団のメンバーとして、ヘンに東京二期会のトップスターに対抗した訳でもないとは思うが。この二人が絡む場面はどうもよろしくない。例えばカウフマンとヌッチの組み合わせが想像できないようなものか。

そんなことで、首都圏ではなかなか実現しない両団体の混成キャスト、幸田浩子さんは堀内康雄さんとこのオペラの父娘で共演するのが夢だったとか。この二人のデュエットはとてもいい感じ。幸田さんは一時声がちょっと荒れ気味の頃があったけど、この日のジルダを聴いているとそんな心配はない。第1幕幕切れのアリア、とてもきめ細かな丁寧な歌だ。ただ、やはりパワー不足の感は否めない。大きな声を出せということではなく、しっかりとした芯のある声がほしい。世間知らずの娘ではあっても不実な恋人の身代わりになるほどの意志を持った人間なのだから、可愛いだけでは済まない。

第3幕だけの谷口睦美さん、この人のマッダレーナはいい。名高いクアッテットで一番の出来ではないかな。公爵はアンサンブルから外れてしまっているし、ジルダだって四人の絡みからは別世界にいるように聞こえる。四人の歌のエネルギーが交錯しうねっていく傑作ナンバーの熱が低い。

日本センチュリー交響楽団はフルートとホルンの首席が退団したばかりらしい。情報通の友だちがピットのことを心配していたが、オーケストラの鳴り方はまとも。ただ、上述のとおり、オーケストラだけなく舞台も含め上演全体の責任を負う芸術監督としては、幕が上がる前になすべき仕事があるということだろう。

さて演出、びっくりしたのは幕切れでジルダを刺殺するのがスパラフチーレではなく、公爵の廷臣たちのうちの誰かだということ。後からプログラムを見たら田尾下哲さんが種明かしをしていた。この件だけではなく、「リゴレット」を観ていて遭遇する多くの「?」とその「!」が並んでいる。宮廷から帰宅したばかりのリゴレットがたちまちジルダに別れを告げて出かけるのは何故か、モンテローネの伯爵の娘はチェプラーノ伯爵夫人であるとか。ユゴーの原作「逸楽の王」をじっくり読み込んで初めて解ることだと言う。なるほど、言われてみればということも多い。ただ、今回の舞台を観ていて判るかとというと、それは別問題。帰りの電車でプログラムに目を通すようなことでは手遅れだった。

短い前奏曲の間から人物の動きがある。ピットの底から梯子伝いにリゴレットが舞台に上がる。暗転して宮廷のシーンに変わるのだが、どうも意味不明だ。回り舞台を使ったリゴレットの家では壁に沿って長い階段があり、公爵やジルダが歌いながら上下する。かと思えば、リゴレットが公爵への復讐を決意する場面ではプロセニアムいっぱいに赤く長い梯子があり、リゴレットが最後にそこを登っていく。プログラムには詳述されていないが、友だちの説ではあれは身分社会の象徴であるとのこと。人物の行為の対象や方向を梯子や階段の上下に仮託しているのだと。そう言われてみると、確かにそうかも。

お馴染みのアレッサンドロ・チャンマルーギの衣装はオーソドックスで美しい。抽象的と言ってもいいぐらいにシンプルな装置とは対照的だが、全く違和感がないのは不思議だ。

オクトーバーフェストの時期だし、舞台がはねて向かうのは湖岸のヴュルツブルグ以外にない。2階ではドイツレストランの名前にもなっている姉妹都市から親善使節が来ていて大宴会の真っ最中、メーターが上がって賑やかなのはいずこも同じ。ここでしか飲めないビールを片手に今日の公演の振り返りを済ませる頃、対岸で花火も打ち上がる。

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