エリシュカ/読売日響大阪定期公演 ~ 何度聴いても
2014/10/28

公演のチラシ

関西のオーケストラで定期的に東京公演を行っているのは大阪フィルぐらいだ。その他の団体はトリフォニーホールの地方都市オーケストラ・フェスティバルに不定期に参加する程度か。一方、東京のオーケストラの関西公演も定期的なものは読売日響だけか。N響は地方都市巡業だし、新日本フィルは大阪を外して三重あたりで演奏会をやったりしている。オペラ歌手に比べると意外にオーケストラの東西交流が少ない。100人もの移動となると交通費・宿泊費も馬鹿にならない。今回の読売日響大阪定期公演が非破壊検査Presentsと称しているのはそんな事情もあるのだろう。ホワイエには企業の担当者らしき人の姿が目立つ。招待客の割合はどのぐらいか判らないが、シンフォニーホールはほぼ満席。

スメタナ:歌劇「売られた花嫁」序曲
 モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467
 モーツァルト:ピアノソナタヘ長調第12番K.332~第2楽章
 ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調Op.95「新世界から」
 ドヴォルザーク:スラブ舞曲Op.72-2
   ピアノ:河村尚子
   指揮:ラドミル・エリシュカ
   管弦楽:読売日本交響楽団 

この日のプログラムはスメタナ、ドヴォルザークというお国ものに、モーツァルトのピアノコンチェルトを挟むというもの。エリシュカを大阪で聴くのは大阪フィルの定期演奏会以来、読売日響とはこれが初共演とのこと。この人の音楽は何度聴いても新鮮、たとえ手垢にまみれたようなこの日のプログラムだって。

「売られた花嫁」序曲の完璧なアンサンブル、いつぞやピットで聴いたご当地オーケストラの破綻寸前の野趣溢れる演奏も捨てがたいが、読売日響の演奏の緩急強弱の自在なこと、いやはや、この老人の指揮棒からどうしてこんな生気に満ちた音楽が生まれるんだろう。

モーツァルトのコンチェルトは先日ファジル・サイで聴いたばかり、立て続けということになる。あのサイの変幻自在ぶりからすると、河村尚子さんの演奏は美しいが大人しく聞こえてしまう。ピアノよりも、ふっくらと包み込むようなオーケストラに気をとられることのほうが多い。第1楽章のカデンツァは誰の手になるものか知らないが、後のほうのト短調交響曲の冒頭のテーマが織り込まれているので、作曲時期から考えてもモーツァルトのものではないだろう。

河村さんのアンコールは大向こう受けを狙った派手なものではなく、緩徐楽章を選ぶというのは珍しいほうかも。エリシュカは舞台袖に引っ込まずに第1ヴァイオリン最後列のプルトの後ろで立ったまま聴いている。孫の演奏を楽しむおじいちゃんという風情だ。小柄な人だがすっきり背筋が伸びていて大きく感じる。ほんと、若い。

「新世界から」、真新しいパート譜には「エリシュカ用」と印字されている。異版を使っているのか、それともクリティカル・エディションなのか。そこのところは不明。聴いていて違いがあるのかどうか気づかなかった。エリシュカの演奏は、自然、オーソドックス、正攻法、そんな言葉がぴったりで、聞き飽きたような曲でも少しも退屈しない。名曲コンサートのルーチンワークとはひと味もふた味も違う音が各パートから流れ出す。この人には巨匠なんて言葉は似合わない。楽譜から生命力を湧き出させる魔術師のよう。

読売日響は「リア」で聴いたとき以来か。あのときは前日がN響の「シモン・ボッカネグラ」、まあ給料の差と言ってしまえばそれまでになるが、日本で一番と二番、オーケストラのレベルは給料と見事に比例している。プロ野球選手などに散見する逆転現象はない。なんだか在阪のオーケストラが気の毒に思えてくる。

アンコールはスラブ舞曲、こってりした味付けもあり得る曲だけどエリシュカの演奏はすっきりと嫌味がない。この人の指揮はいつもオーケストラを聴く喜びを思い起こさせてくれる。ひねくれオヤジも素直な気持ちになるひととき。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system