オペラde神戸「蝶々夫人」 〜 むずかしいプッチーニ
2016/3/13

市民オペラ、演目は「蝶々夫人」、初めてオペラを観る人も多く来ているはず。ふつう、幕が進むにつれ客席の静寂度が高まり、鼻水の音などが耳に入って来るものだ。これは日本だけではなくて、ニューヨークシティオペラで盛大な鼻水音頭を聞いたこともある。でも、この日の公演ではそんな音は耳に届かなかった。いろいろな原因は考えられるが、最右翼は子役の名演技だろう。蝶々さんの息子、第2幕の半ば、辞去しようとしたシャープレスの目の前にフルオーケストラとともに登場するこの子、ヒロインと領事のやりとり(私はここがいちばん弱い)のあと、とことこと走って領事を見送る。こんなところで客席から拍手が湧いた公演を観たことがない。(否定的ではない)笑い声まで出るのだから。しかし、これは演出の大失敗だ。もうこれで、繋がっていたものが切れた。もちろん、この子が悪いわけではないし、そういう事態を想定できなかった演出家の責任だろう。動物と子ども、可愛すぎると主役を喰ってしまいかねない。合成の誤謬とはこのこと。

最近、藤原歌劇団と東京二期会の公演で主役を張った二人を据えたキャストは、東京ではなかなか実現しないものだ。現時点では、並河、藤田という組合せはゴールデンコンビと言っても差し支えない。関西出身の二人が、首都圏で活躍し出してもこちらで歌ってくれるのはありがたいこと。

蝶々夫人:並河寿美
 ピンカートン:藤田卓也
 シャープレス:萩原寛明
 スズキ:名島嘉津栄
 指揮:矢澤定明
 演出:井原広樹
 管弦楽:日本センチュリー交響楽団、神戸市室内合奏団
 合唱指導:岩城拓也

冒頭に書いた通常の反応が客席になかったのは何故か、ピットの責任も重いと思う。プッチーニの音楽はドラマの結節点となるところが実に良く書けている。やりようによってはあざとくなる箇所だが、そこをツボを外さず普通に丁寧に演奏すれば、自ずとエモーショナルな働きかけが生まれる。上述の息子が突如登場する箇所然り、第1幕でピンカートンが「所詮は現地妻、いずれアメリカ女性と結婚を」と傲慢に歌う"sposa americana"の最後の音に蝶々さんの登場の最初の音を重ねるところなど、このわずか1秒でこのオペラのドラマが既に凝縮されている。そんなところを、精緻に表現する感性をピットには見いだせなかったのが残念。日本センチュリー交響楽団だけでは足りず、神戸市室内合奏団のメンバーを加えたオーケストラに高望みするのが無理だったか。編成が大きくなった分、音自体は威勢がいいのだけど。

西宮の夏の佐渡オペラで「蝶々夫人」を取り上げたとき、並河さんはトリプルキャストの三番手で歌っていたと思う。その公演も聴いているが、あの頃からすると、ずいぶんとスケールアップした。この出ずっぱりのタイトルロールを歌いきるスタミナは大変なもの、可憐で可哀想な蝶々さんというイメージだけでは、この役は難しい。一方で歌が強靱になればなるほど、ふつうの日本人の情感から外れるところも出てくるものだ。でも、この役柄が要求する歌はそういうものだし。

今回の蝶々さんは少しビブラートが気になるところもあったけど、堂々たる歌唱であったことは間違いない。この堂々たるというのが聴衆の求めるイメージとのズレがあるのだろうか。

さて、藤田さんのピンカートンは何ら問題のない出来で、ちょっと役不足気味だと思うのだけど、いま勢いに乗っている人だから出演機会は逃したくないということか。2週間後には伊丹でカヴァラドッシを聴く予定だ。秋には川西でデ・グリューもあるし、昨年には秩父でカラフも歌っている。プッチーニのテノール役が続いている。それはそれで悪くないのだが、誰でも歌うような役ではなく、この人にしか歌えない役柄で聴きたいものだ。その点では2月26日にベルガモで歌った「清教徒」の反響はどうだったんだろう。ベルガモといってもドニゼッティ劇場ではない小さなオペラハウス(Teatro San Giovanni Bosco)のようだが、歌えるテノールが稀少なアルトゥーロを周辺の劇場関係者が聴きに来ているに違いない。日本に留まらない活躍へのスプリングボードになればと思う。

後で気付いたのだが、会場で配られたプログラム冊子、少しページ数が多いなと思ったら、後ろのほうの数ページがお寺の広告だ。兵庫県下を中心に相当数の寺院の広告が並んでいる。楽器店や飲食店などなら驚かないが、うーん、こんなの見たことない。オペラにボンゾは登場するけど、それは関係ないだろう。劇場にやって来る人たちの年齢層を考えたマーケティングというのも奇妙だ。確かに、お彼岸も遠くはないけれど…

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