京都大学創立記念行事音楽会「飯田みち代リサイタル」 〜 ああもったいない
2016/6/17

ピアニストの大井浩明さんのコンサートには何度か出かけている。そんなことから、いつもコンサートの案内をいただいているが、日曜日に届いたメールで週末金曜日のコンサートが目をひいた。飯田みち代ソプラノ・リサイタル、もちろんピアノは大井浩明さん。京都大学創立記念行事音楽会とある。
 会場は京都コンサートホール、飯田さんは大井さんの3学年上の先輩にあたり、京都でのリサイタルは初めてということらしい。京都大学の卒業生(大井さんは中退)ということで、ギャラは抑えてもらっているにしても、入場無料とはなんと豪気なこと。「ウィーン世紀末逍遙」という副題の付いたプログラムを見ると、これを広く学生と教職員職員に向けてやるとは、非妥協もここに極まれりという感じがする。

マーラー:リュッケルトの詩による5つの歌曲
 シュトラウス:4つの最後の歌
 ソラブジ:「サロメ」より最終場面(ピアノ独奏)
 ベルク:「ルル」より「ルルのうた」
 ベッリーニ:「ノルマ」より「清らかな女神」
 ヴェルディ:「椿姫」より「ああ、そは彼の人か」
 ヴィラ=ロボス:ブラジル風バッハ第5番 「アリア」
 シュトラウス:「愛の賛歌」
   飯田みち代(ソプラノ)
   大井浩明(ピアノ)

マーラーとシュトラウスの歌曲集のあとに10分、15分の休憩、最後の2曲はアンコールで、それぞれの曲の前に演奏者のトークが入ったこともあり、19:00開演で終演は21:30頃となった。

二つの歌曲集では、飯田さん自身の訳になる各曲の詩文の朗読に続いて歌唱という流れで、これは訳文を読む必要もなくなるので大変にいい。この人、これまで聴いたのは「パン屋大襲撃」という現代ものと「魔笛」の夜の女王、「ルル」の日本初演のときはダブルキャストの天羽明惠さんのほうを聴いた。いずれにしてもオペラの役だった。
 ところが、このリサイタルを聴いて、この人にはリートの適性があるのを知る。どちらの歌曲集もオーケストラ伴奏版しか聴いていなかったので、ピアノ伴奏だと声や言葉のニュアンスが手に取るようにわかるし、彼女の丁寧な歌いぶりにも好感が持てる。自由席で空いていて良い席に座ったせいもあるが、声の響きがよく、しかもクリアだ。大井さんの伴奏も、マーラーの交響曲をピアノでやるような人だけに、とても雄弁だ。どちらの歌曲集も辛気くさくなるところがあるのに、それは全然、眠くもならず集中して聴けたのだから。

ソラブジという作曲家の「サロメ」最終場面をピアノ曲に仕立てた作品、大井さんによれば、歌手の喉休めのための繋ぎということだが、そんなはずはない、日本初演、15分近くのボリュームだ。よくもまあこんな曲を組み込むなあ、ここらあたりがこの人の面白いところ。オーケストラの楽器もないし、もちろん声もないから、はてこれが「サロメ」の最終場面だったかどうかすら判らない私だが、随所に特徴的な和音が出てるので。ああそうかという具合。

休憩が二度あるので飯田さんは衣装が三着、クリムトの絵から出てきたような、タイトで黒を基調としたドレスと鮮やかな黄色のドレスが前半、ヴィオレッタに合わせたのだろうピンクてフリルの多いドレス、クールビズなんでネクタイだけ外しましたというサラリーマン然としたダークスーツの大井さんとは好対照だ。背筋をすっと伸ばして舞台に登場する飯田さん、熊のようにのそのそと前屈みで歩く大井さん、このコントラストも可笑しい。

後半はオペラからの曲になるが、いきなり「ルル」というのも刺激的過ぎる。「3分ほどの短い曲なので我慢して聴いてくださいね」との前置きも付く。いや、でもこれは見事だ。日本での創唱者だけのことはある。

ウィーン世紀末とは何の関係もないベッリーニとヴェルディが続く。そして、ドイツ語からイタリア語に。前者に比べると後者のディクションの甘さが少し気になるが、目くじらを立てるほどのこともなし。ただ、このイタリアオペラのアリアでは、直前にヨーロッパから戻ったばかりで喉が不調ということが、高音の部分でほの見えるようになる。前半のリートでは感じなかったことだ。

プログラムには「ああ、そは彼の人か」としか出ていなかったが、ちゃんとカバレッタ(「花から花へ」)も歌われる。ヴィオレッタでは舞台、客席を含めたパフォーマンス付き、下手から歌い出して、客席の1階中央ゾーンを一周、カバレッタに移ると舞台上手に腰掛け、お尻を軸に半回転して舞台上に戻るという振り。実際の舞台でそこまではやらないだろうが、さして不自然ではない。サービス精神の旺盛な人だ。

この創立記念行事音楽会が始まったのは昭和31年で、毎年実施されていて今回が60回目ということだから、これはちょっと凄いこと。かつてはどれだけ学生が参加していたのか判らないが、いま300人いるかどうかの閑散とした京都コンサートホールの客席を見渡すと、学生よりも大人、それもかなりの年齢層が目立つ。教職員、学生の尊属というあたりの聴衆なのだろう。私のような部外者も幾分かは混じっているかも。

いまどきの大学生はクラシック音楽なんて聴かないのか、プロオーケストラが格安の学生席を設けたりして若い聴衆の確保に躍起になっているが、その効果はいかほどのものだろう。彼らは他にすることがいっぱいあるのか、元々関心がないのか、そのあたり私には判らない。

主催者の挨拶では、学生に幅広い素養を身につけてもらう趣旨で行われている催しとのことで、このコンサートの他に能楽の鑑賞会もあるようだ。私は客席にいて、ふと「教養主義の終焉」という言葉が頭をよぎった。大学当局の側にある、学問、道徳、芸術の習得が人格の陶冶に繋がるという考え方とは懸け離れた若者の姿が一方にある。もちろん教養主義を否定する論者も多いわけで、その論争に立ち入るつもりはないが、私が気になるのは今の大学生世代に見える内向き指向、周りの多様な事物に対する無関心さだ。「これでいいのか」と言ったら年寄りの繰り言になってしまうが、単純に考えてもこんな値打ちのあるコンサートがタダで聴けるのに、ああもったいない。

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