マリインスキー劇場来日公演「ドン・カルロ」 〜 ゲスト明暗
2016/10/12

初台から京王新線・都営新宿線で岩本町乗り換え、秋葉原から東京メトロ日比谷線かJRで上野というのが最短ルートになる。5時に新国立劇場を抜け出して6時の開演に余裕で間に合った。ワグネリアンたちが集う初台から男女比率が逆転し、オペラ公演でも雰囲気が全く違うのが可笑しい。入りは京都ほどの閑古鳥ではないが、満席にはほど遠い。

フィリッポ2世:フェルッチョ・フルラネット
 ドン・カルロ: イ・ヨンフン
 ロドリーゴ:アレクセイ・マルコフ
 宗教裁判長:ミハイル・ペトレンコ
 エリザベッタ:イリーナ・チュリロワ
 エボリ公女:ユリア・マトーチュキナ
 テバルド:ユリア・マトーチュキナ
 修道士:ユーリー・ヴォロビエフ
 王室の布告者:エフゲニー・アフメドフ
 レルマ公爵:アレクサンドル・トロフィモフ
 天からの声:エカテリーナ・ゴンチャロフ
 マリインスキー劇場合唱団
 マリインスキー劇場管弦楽団
 指揮:ワレリー・ゲルギエフ
 演出:ジョルジオ・バルベリオ・コルセッティ
 演出:ファビオ・チェルスティッチ

マリインスキー劇場で普段出ている歌手たちに二人のゲスト歌手が加わり、公演チラシはゲルギエフとフルラネットを前面に出した体裁になっている。カルロ役のイ・ヨンフンもゲスト扱いだ。この両歌手、明と暗にはっきりと分かれた。フルラネットは期待以上の素晴らしさだったのに対し、イ・ヨンフンはもう勘弁して欲しいという状態だった。いつもより詳しく書いてみる。

カルロ役のイ・ヨンフン、この人は2011年のメトロポリタンオペラ来日公演で、カウフマンに代わってこの役を歌っている。名古屋で聴いた私は次のような感想を記している。

イのカルロ、カウフマンが降りてこの人の名前が発表されたとき、グラインドボーンでこの韓国人テノールを聴いた人から、とても佳かったと言うことを聞いたので、期待して臨んだのだが今ひとつ物足りない。英国で歌って絶賛だったというのは「マクベス」のマグダフ、ドン・カルロとは役の重さが違う。一発アリアを決めたらいい役と、重要なアリアが与えられていないタイトルロールなのにアンサンブルだらけというカルロじゃ訳が違う。声は美しく立派だし、イタリアオペラにはカウフマンよりも相応しい声質かも。ところがこの人、きちんと詞は歌っているのだが、口跡が良いとは言えずイタリア語にシャープさがない。サザランドではないが英語圏での評価とそれ以外との落差が生じる歌いぶりではないかな。韓国の国民性なのか、何だか動きや感情表現が過剰に思える。舞台の出入りもドタバタしていて気になる。でも面白いテノール、今後の精進次第では大化けもあり得る。

「大化けもあり得る」としていたのは、ある意味では事実となった。5年の間に各地で経験を積んで慣れただろうし、この役も身について舞台上の姿にも自信が窺える。声の輝かしさは増し、パワーもアップしている。でもね、それでいいのかとなると、全然違う。アリーナで大向こう受けを狙って声を張り上げる、あんなサーカスをオペラに持ち込むのは一世代ずれている。この人のアンサンブルの破壊力たるや大変なものだ。ひとり浮いてしまってるのが見ていて気の毒。思うに、テキストと音符は頭に入っていても、彼は言葉それぞれの意味を理解せずに歌っているようにしか聞こえない。そうでなければ、あんな身振りは絶対に出ないはずだ。歌だけでなく、彼のアクションは他のキャストから完全に遊離していて目に余る。ひとことで言えば、声は出るけど歌も演技も雑ということ。感興を殺ぐこと甚だしい。

本棚の隅っこにあった本を思い出して取り出してみた。それは"Opera Antics"というタイトルで、その中に"The Great Singers' Acting Correspondence Course"という章がある。そこに書かれているのは、まさにこの日のイの舞台マナーそのものだったから。
 William J. Brookeという著者はこの本でユーモアたっぷりにオペラに纏わる話題を連ねているのだが、この章は歌うこと専念で演技など皆目のオペラ歌手をブラックユーモア風に揶揄している。

No problem! Many great singers have found themselves in the same situation. What did they do? They dialed our toll-free number to get the course that can make anyone a great operatic actor with a few simple techniques.

そこで開陳しているのが、Expressions、Hands、Armsに三分した基本動作の指南、イに見事に当てはまるのはArmsの項で、片手を前に伸ばす、両腕を拡げる、肘を曲げて胸に当てる、腕を上に上げて振り下ろす…といったパターン化された所作の繰り返しだ。他の出演者の動作が極端な動きがなく自然だったのに対して、イはここで列挙されているアクションを100回ぐらいやっていたと思う。もしや、この本は彼のバイブルになっているのだろうか。こんなのを見て黙っている演出家もどうかと思うが、所詮ゲスト歌手、まあいいや、立派に声が出ていれば目をつぶろうぐらいか。お客も舐められたものである。なお、この章にはトロヴァトーレのDi quella pira…を例に引き、前述の三分した動作の組合せ例を示している。もちろん、著者のギャグで、これも笑わせる。

こんなふうに書くと、最近の嫌韓の風潮に乗っかっているようにもなるが、それは本意ではない。これほど極端ではないにせよ、日本人歌手の何人かに同じ傾向を見出すのは困難じゃない。ヨーロッパの文化に深く根ざすオペラにアジア人が取り組む上でのハードルが、テキストの細部の理解、それに連動する演技に端的に表れる。しかし、新国立劇場で蝶々さんを歌った外国人歌手が日本人以上の肌理細かな所作で驚かせたこともあるのだから、越えられない壁ではないはずだ。せっかく立派な声を持っているのだから、早く自らの課題に気付いて欲しいものだ。

さて、フルッチョ・フルラネット、この役は2001年サントリーホールでのセミステージ形式の公演で聴いて以来になる。あの頃ほどのパワーはないかも知れないが、引き替えに15年の歳月で得られた歌の深みはそれを補って余りある。老境の国王の威厳と王冠の下に秘められた懊悩をここまで歌で表現されると、もう感服以外の何物でもない。公と私、優しさと怒り、懇願と威嚇、信頼と拒絶、各場面でヴェルディが創り上げた人間像を過不足なく表出する歌はほんとうに見事だ。歌い分けといった次元を超えている。ネイティブだから口跡が良いとは限らないが、この人のテキストのクリアさも特筆ものだ。なかなかフィリッポの理想的歌唱には巡り逢えないが、この日のフルラネットはそれだと言ってもいい。

第3幕、王妃が宝石箱の盗難を訴えに王の私室を訪れ、フィリッポの手にあるカルロの肖像を示されて失神する場面、通常の演出であれば倒れたエリザベッタに背を向けてSoccorso alla Regina!(王妃を助けよ)となるのだが、フィリッポはしゃがんで王妃をずっと抱きかかえている。これは見たことがない。とても驚いた。王の呼びかけでロドリーゴとエボリが入室したとき、私は気付かなかったがエボリが二人の様子を見て大きなショックが受けた表情に変わったらしい。うーん、それは女性目線、「王はやはり王妃を愛しているんだわ!」というところか。ここは演出の冴えか。

フルラネットのフィリッポを聴いただけで値打ちがある公演だが、他の歌い手での注目はエボリを歌ったマトーチュキナだろう。フィオレンツァ・コッソットの若い頃の声を聴くようだ。張りのある艶のある声、まだ若い人だし、これから大きく羽ばたく人であること間違いなかろう。
 エリザベッタのチュリロワも悪くないが、弱声のコントロールという面ではまだ改善の余地がある。これからの精進次第というところか。素材としては有望。

ロドリーゴのマルコフは京都でオネーギンを歌った人だ。ゲルギエフがあれだからか、マリインスキー劇場のメンバーはよく働くなあ。ちょっと考えられない過密勤務だ。この人の印象はオネーギンのときと同様だ、どうも歌が強面過ぎで一本調子になる。ロドリーゴという人物の剛毅さは地で表現できていても、理想家や人格者としての人物表現、カルロへの愛情表現(同性愛的に描く演出もある)はどうなんだろう。この役はマルコフの歌よりもっと複雑な役柄だと思うのだが…

あとの座付きのメンバーの水準もそれなりと言うか、ちょっと残念という部類になるだろう。宗教裁判長のペトレンコ、あまりに軽く弱すぎて、世俗の権力を屈服させるほどの威光は全く窺えない。第3幕のバスの二重唱では、台本での勝敗と歌唱での勝敗が逆転してしまっている。これでは困る。
 テバルドのマトーチュキナも、出番はわずかとは言え、印象に残る役柄なのに歌にも演技にも全く魅力がない。フランドルの使節たちは指揮者が見えない角度とは言えアンサンブルはお粗末、コーラスもいいかと思ったら、おやっと思うところもあって、ずいぶんムラがある。これは演出家の責任だろうが、動きもぎこちない。

5階ライトサイドバルコニーの舞台寄り、扉を開けたら目の前にスピーカーがある。スタンドをよく見るとカバーのかかったモニターも付いている。ははあん、ここで天の声をやるんだなあと合点。ピットとの距離があるから、ナマ音ではなくアクティブスピーカーでピットの音を拾い時間差が起きない配慮と推測する。となると、アウトダフェの場面では逆に二重の音を聴かされるのかなと気になったが、歌い手のゴンチャロフはその場面でボリュームを上げる必要はないと、スタッフに指示していた。モニターのゲルギエフの映像で出を測っていたようだ。しかし、真横でというのはねえ。私にとっては天の声が至近距離、下から湧き上がってくるのは地獄の声というところか。なるほど、場面が場面だし。

オーケストラはどうなのかと言うと、これはなかなかいい。弦の音が豊かだ。通常の4幕版だと思ったら、随所に聴いたことのない音楽があったような。ゲルギエフが副旋律を強調する箇所があったのかも知れなが、何とも言えない。ややオーケストラは走り気味でコーラスが置いて行かれそうなところもあったが、メリハリの利いたという言い方もできるだろう。後半になると管楽器に疲れが見えたか、転け気味のところも顔を出すのはご愛敬か。直前に聴いた初台の東京フィルより遙かにオペラのピットらしい舞台との一体感がある。

なぜか配られた配役表に演出家の名前が二つある。どういうことなんだろう。先述のような意表を突く着想もある反面、目障りな背景のプロジェクションという発想の貧困もあり、どうなっているのかよく解らない。衣装はとても豪華なんだから、余計な小細工をしないほうが良かったのではないかな。

このマリインスキー劇場来日公演の「ドン・カルロ」、当初は5幕版での上演となっていた。それがいつの間にか4幕版に変わっていたのを直前まで知らなかった。カタログを見てお節料理を注文したら、届いた重箱に数の子が入っていないようなものだ。5幕版なら東京まで行ってもいいかなと思ってチケットを確保したのに、こりゃあんまりだと思った。
 しかし、結果的にはこのほうがよかったのではないかと思えてくるので不思議だ。なぜなら、5幕版のフォンテンブローの場面があったらカルロの歌をたくさん聴くことになってしまうのだから。まさか、そういう配慮で4幕版にしたわけではないだろうが、真相はどうなんだろう。連日連夜の過密日程で流石のゲルギエフ/マリインスキーもスタミナが懸念されたのだろうか。ちなみに、心配していた当方のスタミナはワーグナー、ヴェルディの大作のハシゴを乗り切った。居眠りひとつ出なかったのだから不思議なことだ。

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