やっぱりファジル・サイ 〜 日本センチュリー交響楽団定期演奏会
2016/11/25

火曜日、私の地元の奈良でファジル・サイのリサイタルがあった。当日にホールに電話したらチケットは残っているようで、よほど出かけようかと思った。しかし、いったん帰宅してから出直すのも億劫になって見送った。やはり行けばよかったかなあ。会場は秋篠音楽堂、平城宮跡に隣接する近鉄百貨店の6階、まさにシルクロードの終端の地、同名のタイトルを冠した曲を書いているサイだけに、何らかの含意があったのだろうか。

もともと買っていた週末の日本センチュリー交響楽団の定期演奏会、ここでは自作のシンフォニーがプログラムのメインだ。以前、東京では演奏されたが、これは関西でのプログラムには入っていなかった。

モーツァルト:歌劇「後宮からの逃走」序曲
 モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467
 ファジル・サイ:交響曲第1番「イスタンブール・シンフォニー」 作品28
  ピアノ:ファジル・サイ
  指揮:飯森範親

サイを聴くのは4度目になる。オーケストラの定期演奏会でソリストの名前に惹かれて出かけることなどないが、この人の場合は特別だ。いつも、音楽がいま生まれている瞬間に立ち会っているという気分になる。たとえ、それが200年以上前の作品であったとしても。

そうなのだ、今回も含めて3回連続でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番なんだから。彼はよほどこの作品に親近感を持っているのか。カルロス・クライバーが「ばらの騎士」や「ボエーム」、さらにはベートーヴェンの第4交響曲ばかりを取り上げていたのに似ている。変人ぶりではいい勝負なのかも知れない。サイの場合はキャンセル魔ではなさそうだけど。

シンフォニーホールのパイプオルガン側の席、ここで聴いているとサイと睨めっこをしている感じになる。あの百面相には思わず笑ってしまう。コンチェルト第1楽章のはじめ、サイはピアノの中に手を突っ込んでいる。内部奏法で音を鳴らしているようではないが、両手が動いている。おいおい、もうすぐピアノの出じゃないかと思ったら、いつの間にか自然に主題が流れ出す。左手が空くときは指揮者の表情づけよろしく宙に揺蕩う。ソロパートとのアイコンタクトは当たり前、とうとう歌い出す瞬間まで。こりゃあ。オーケストラメンバーはやりにくいのか、一体感を感じるのか、どちらだろう。いちおう指揮台には飯森さんがいるんだけど、オーケストラ側から眺めていると、間違いなく指揮者よりサイのほうに目が行く。もう私は慣れっこになったが、初めて聴いたときは度肝を抜かれたものだ。サイのときはこの位置で聴くのが間違いなく面白い。

第1楽章と第3楽章のカデンツァ、例によってオリジナルなものだと思う。何が飛び出すか判らない面白さ、オーケストラとの戻りのタイミングでの指揮者との呼吸合わせなんか、とてもスリリングだ。これでこそコンチェルトだろう。聴くほうも予定調和的な流れではないので気が抜けない。いつも眠気を催す休憩前のコンチェルトが、サイのときはメインプログラムに変身する。同じ曲を3回続けて聴くのに、初めてのときのように新鮮だ。
 開演前、楽団の関係者と立ち話したとき、サイを聴くのは初めてというその人に、彼はたんなるピアニストじゃなくて数少ないアーティストですよと言ったものだ。さて、どうお聴きになっただろう。

休憩前のアンコールは、これも何度目かのトルコ行進曲、ただ前に聴いたものとはバージョンが違う。と言うよりも、即興が入るのでその都度違うということか。今回は水と油のようなフレーズが行き交う、なかなか緊張感に溢れたものだった。

そして、イスタンブール・シンフォニー、まさにトルコに始まりトルコに終わるプログラムだ。プログラム冊子を見ると、7楽章もあるのでびっくりだ。3人の客演奏者が演奏するトルコの民俗楽器も登場する。

これは伝統的な交響曲ではなく、組曲というほうがいいのかも知れない。各楽章の楽想は、統一感よりも多彩さを眼目にしているようなところがある。難しい現代音楽の範疇ではないので、感覚的に受け容れやすい音響だ。西洋的な律動とは異なる独特の浮遊するようなリズム感、オーケストラの後ろからの覗き込むパート譜には13/4とか7/4とかの拍子が頻出するし、小節の区切りの縦線だけではなく、小節の途中に破線の縦線がある箇所も。とは言え、どうやって演奏するのか判らないような奇天烈な楽譜ではない。もちろんリズムの取り方は難しいと思う。まあ、そんなことはともかく、私には傑作かどうかは判定しがたいが、聴いていて退屈するような作品ではない。西洋音楽が陥っている閉塞状態からは少し距離がある、サイ自身の出自の強みを活かしているのかも知れない。

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