バイエルン国立歌劇場「タンホイザー」〜 驚きのピット、愚かな演出
2017/9/28

ワーグナーのオペラで唯一居眠りが出ないのが「タンホイザー」 、加えてこの顔ぶれなら出かける価値があるにしても、公演後の山登りがメインか、こっちが目玉かよくわからないところもある。長野に向かうのに成田へ。タラップを這って登らせたことで悪名が轟いたバニラエアーを初めて利用した。ピーチだと未明の出発となるのに、こちらだと関空9:55発なのでちょうどいい。予定より20分も早い到着となる。これも功罪相半ばの定刻出発の努力の賜物かも

ヘルマン:ゲオルク・ツェッペンフェルト
 タンホイザー:クラウス・フロリアン・フォークト
 ヴォルフラム:マティアス・ゲルネ
 ヴァル ター:ディーン・パワー
 ビッテロルフ:ペーター・ロ ベルト
 ハインリッヒ:ウルリッヒ・レス
 ラインマル:ラルフ・ルーカス
 エリーザベト:アンネッテ・ダッシュ
 ヴェーヌス:エレーナ・パンクラトヴァ
 羊飼い(声):エルザ・ベノワ
 羊飼い(少年):ティモシー・モーア
 4人の小姓:テルツ少年合唱団
 バイエルン国立管弦楽団
 バイエルン国立歌劇場合唱団
 指揮:キリル・ペトレンコ
 演出・美術・衣裳・照明: ロメオ・カステルッチ
 振付:シンディー・ヴァン・アッカー
 合唱監督:ゼーレン・エックホフ

この記事の副題が全てと言っていい。ペトレンコ指揮のオーケストラの素晴らしさに驚くと同時に、音楽を全く理解しない演出家による無残な舞台に辟易。読み替えも含め演出の面白さはオペラを観る楽しみのひとつだが、目から鱗というものに巡り会うのは原っぱで落としたコンタクトレンズを見つけるほどの確率、これも死屍累々の思いつきプロダクションに名を連ねるものだ。演奏が素晴らしかっただけに余計に目立つ。

NHKホールの天井桟敷から見下ろすと舞台を覆う紗幕に織疵があるように見えた。双眼鏡で覗くと矢のようなものが1本、どうも何かのモチーフとして使うのだろうと思っていたら、序曲が進むとともに20人ほどの女性が上半身も露わな衣装で次々を矢を放つ。オーケストラを伴奏にボンボンと盛大に音を響かせてハリネズミ状態に。弁慶の立ち往生かと言えば、的になっているのは舞台奥中央の大きな円盤、そこには女性の顔の半面が描かれている。後で教えてもらったのだが、あれはフォルナセッティを借用したもののようだ。皿の代わりに的ということか。そうか、演出家はイタリア人。
 弓矢に何かを象徴させているつもりなんだろうが意味不明、歌合戦の竪琴を弓で代替するのは許すとしても、激高した同輩たちが台詞で「剣」と連呼しているのに、そこには弓矢しかないのが笑える。この第2幕では肉襦袢をまとった人間が床にゴロゴロと動き回る。歌合戦の始まりも歌手たちは何故か全員が床にゴロリだった。その前のヴェーヌスの場面ではスライム状の物質にまみれた人間が足をバタバタさせている。射手たちの例があるから、おとうさんたちは全裸の女性の登場を期待したところであるが、さすがにそれはなかった。
 そして、極め付けは終幕だ。帰還したタンホイザーの「ローマ語り」、あの明るいフォークトの声がここでは驚くほど陰影に富んだものとなる。これまで聴いた彼の歌とはかなり違う劇的表現だ。そんな歌い手を下手に追いやり舞台中央で繰り広げられるマイムの茶番。怒りがこみ上げてきそうだ。クラウスとアンネッテという主役コンビの名前が標された二つの台に、シーツで包まれた死体が載せられる。舞台の上下から各四人でストレッチャーで運ばれるのだが、それが何度も繰り返される。ストレッチャーから台上に移し、シーツをめくって死体を曝け出す。再びシーツに包んでストレッチャーに載せて両サイドに退出、それが次々に同じパターンで繰り返される。死後の腐敗と膨張、白骨化の過程を順次見せようというのだが、すぐにネタバレである。うんざりするような舞台上の動き、傍らのフォークトの熱唱への集中を妨げようとする悪意すら感じる演出だ。

なんでこんなバカなことが行われるんだろう。穿った見方をするとこんなことではないだろうか。国立だか州立だか微妙だが、ドイツ圏の大歌劇場は助成金に支えられて膨大なスタッフを擁している。コーラス、バレエ、道具や衣装の裏方、つまり、彼らの雇用確保事業ではなかろうか。リアルに各段階の死体のフィギュアを作るにも相当な人手がかかる。それの舞台への搬入搬出も人力だから、ここでも人手だ。今回の版ではバレエがないから、何かダンサーの仕事も必要だ。それでずらりと並んだ射手や床にゴロゴロの人の動きで埋め合わせる。あんな死体の変化なんて優れたグラフィクデザイナーとプログラマーがいれば、造作なくスマートに対応できるはずだ。それなら余計な人の動きで歌の邪魔もしないし、死後の変化も無段階で表現できる。ビデオやスローモーションなんてなかった時代、相撲の取組の後で分解写真というものがあったなあと思い出した。
 長らくスタッフを務めている人たちの全てが最新テクノロジーにキャッチアップできるわけではない。新しいから良い訳ではないし、伝統的職人技は貴重だし価値があるものだ。ただ、こんな舞台を見せられると、技術の進歩に追いつかない劇場運営の硬直性がクローズアップされているように私の眼には映った。

演出のことを考えると腹立たしさが蘇ってくるが、思い出したくもない公演とならなかったのは偏に歌い手たちとピットのおかげだ。初めて聴いたペトレンコはやはりただ者ではない。多くの凡庸な指揮者がpmfffしかないのと違って、この人は無段階の音量コントロールができる。そのパレットの豊かさは特筆ものだ。ここまでの神経の細やかさはカルロス・クライバーぐらいしか思い浮かばない。ヴォルフラム役のゲルネなんて、まるでリートを歌っているようなものだ。とても小さな声で表現する箇所でも、全くオーケストラに埋没しないばかりか、豊かなニュアンスが伴ってくる。出演メンバーの中では異質な感はあるのだが、それを決して異質なものとさせないピットには舌を巻く。第2幕の終わりのアンサンプルフィナーレの処理なんて、真のオペラ指揮者でないとなし得ないレベルの精妙さと興奮が一体化している。この人、ベルリン・フィルのシェフになるそうだが勿体ない話だ。オーケストラに割かれる時間を劇場に充ててくれたら、どれだけ幸せかわからない。

題名役のフォークト、毎年のように来日して人気もすこぶる高い。明るくて爽快感のある彼の声は私も大好きだ。でもタンホイザーだとどうなんだろうという気もあった。各幕に応じて声質の違いを表出しているのがよくわかる。ただ、聴いていると、彼自身が意識してそうしていることが伝わってしまうところがあるのだ。まだこの役を多く歌ってはいないと思うので、歌い込むうちに自然さが伴ってくるのだろう。

ゲルネは先述のとおり。領主ヘルマン役のツェッペンフェルトの素晴らしい声には感心した。ヴェーヌスのパンクラトヴァはリリックな声で、フォークトの声との親和性が高い。らしくはないかも知れないが、私は気に入った。エリーザベト役のダッシュはちょっと微妙だ。ちっとも悪くはないのだけど、なんだかインパクトに乏しい。総じて言えば、声楽的にはとてもリリカルなタンホイザーだったのかも。

午後3時開演、40分の休憩が2回、終演は午後8時を過ぎる。いつ腹ごしらえをするかというのが問題、初台なら隣のオペラシティで軽く一杯なんてことができるのに、NHKホールだとそういう訳にもいかない。ところが、そこは良くしたもので、隣の代々木公園イベント広場で「北海道フェア in 代々木 ~ ザ・北海食道」なる催しが開かれていた。渡りに船とはこのこと、休憩時間は充分だ。屋台で旨そうな海産物、もちろんビールも。テントでグイッと飲み干せば、厭な演出のことなど忘れ、ペトレンコのピットに酔えるというものだ。二度目の休憩は傘をさしながらとなったが、これは吉兆、低気圧は東へ去り、明日からの山登りでは大きな移動性高気圧が迎えてくれるだろう。「ローマへ」、もとい、「信州へ」。

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