びわ湖ホール「アッシジの聖フランチェスコ」 〜 秘仏御開帳
2017/11/23

いやあ、大変なものを聴いてしまったというのが正直な感想。少なくとも私には壮絶な失敗作に思える。とにかく長い、長すぎる。第1幕75分、第2幕120分、第3幕65分、忍耐力の限界を超越する。これはメシアンの没後25周年を記念する演奏会形式での全曲日本初演ということらしい。

天使:エメーケ・バラート
 聖フランチェスコ:ヴァンサン・ル・テクシエ
 重い皮膚病を患う人:ペーター・ブロンダー
 兄弟レオーネ:フィリップ・アディス
 兄弟マッセオ:エド・ライオン
 兄弟エリア:ジャン=ノエル・ブリアン
 兄弟ベルナルド:妻屋秀和
 兄弟シルヴェストロ:ジョン ハオ
 兄弟ルフィーノ:畠山茂
 合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル、新国立劇場合唱団
 指揮:シルヴァン・カンブルラン
 管弦楽:読売日本交響楽団

素人の耳にもこの作品の欠陥はすぐに判る。先ずは台本の問題か。作曲家が台本まで書くとこうなってしまうのだろうか。とにかく書きたいように書く。饒舌でいて言葉足らず、と言っても私はフランス語を解するわけでもないので字幕頼りだが、それがちっとも理解できない。言葉が少ない訳でもないのに、それを凝縮するなんてことは考慮の外なんだろうか。餅は餅屋、台本作者に優れた才能を配しておけば、こんなことにはならなかったろうに。相互のインスパイアによって、作品の練度が高まったも知れないのに。

ゆったりとしたテンポの朗唱風の歌と、大オーケストラのてんこ盛り的な響きが交互に繰り返されるような造りになっている。メリハリの乏しい歌と対照的に、ずらりと打楽器群が並ぶ。ヴィブラフォン、グロッケンシュピール、シロフォン、シロリンバ、マリンバといった鍵盤打楽器が横一列、メシアンといえばこれ、オンドマルトノに至っては3台という大盤振る舞いだ。響きは飽和状態だ。もうそれだけで、作曲家が劇場上演を期待していないことが伝わる。100人規模のオーケストラとはいえ、実際問題として嵩高の楽器がこんな状態だと通常のピットにはまず収まらないだろう。ピットを持ち上げたびわ湖ホールの舞台奥まで奏者が並んでいる。

今回の公演、声楽の印象は薄い一方で、シルヴァン・カンブルラン指揮の読売日本交響楽団の演奏が特筆ものだ。こんな複雑な音楽をよく練習したものだ。最近世評の高いこのオーケストラ、聴く機会は少ないがその素晴らしさには舌を巻く。これは本気になったときのNHK交響楽団さえ凌ぐかも知れない。あれっ、大植さんのときに大阪フィルのコンサートマスターだった長原幸太さんがトップに座っている。読売日響に移っていたのか。これは懐かしい。

第1幕で相当げんなりしていた私は、120分の第2幕、これはテキストの字幕など無視してオーケストラだけ聴けばいいやと方針変更したが、それも上手くいかなかった。何しろ反復が多いのだ。いくら見事な響きでもすぐにお腹いっぱい。冗長感が漂ってくる。逃げ場がないのに困った。コルレーニョなんて序の口、弦楽器の胴体まで叩く特殊奏法のオンパレード、鍵盤打楽器の跳梁、金管の咆哮、クラスター爆弾の炸裂、やりたい放題とはこのことか。ここぞというところで繰り出すなら効果だが、執拗な反復は辟易に至る。もういいやという感じ。

たぶん多くの人に聴いてほしい観てほしいという気持ちが薄いのか。解る人だけ、好きな人だけでいいという芸術至上の考えを否定しないが、ならばオペラという表現形式を採ること自体がどうなのか。なんだか自己撞着に陥っているように思える。台本を見直し、楽器編成をリダクションして、半分ぐらいの長さに凝縮すれば何とかなりそうだけど、改訂しようにも作曲家は故人だし、そんなことをするぐらいならオペラなんか書かないほうがマシと宣いそう。

読売日響のホームページに今回取り上げたメシアンについての連載記事が掲載されている。作品が作品だけに、上演に先立ち一年近くかけてパブリシティを重ねる周到さだ。その中に次のようなくだりがある。

メシアンは晩年に日本で行った講演の中で、カトリック信仰を持たず、音に色彩を感じない人には自分の音楽は理解できない、といった意味のことを述べている。確かにそうなのだろう。我々にとってメシアンの音楽はどう近づけばよいのかわからない、きわめて「個人的」なものだ。
(読売日響プログラム誌「月刊オーケストラ」2017年1月号 〜 "特集 アッシジへの道" 第1回 - メシアンの音楽世界 - 沼野雄司)

メシアンの発言がそのとおりだとすると、私なんかは端から無資格者になるだろう。鳥や魚に説教を垂れる聖人なんて狂人同然だと思うし、一神教の独善性、排他性に対しては嫌悪感しか湧かない。そういう人間に聴かせても「馬の耳に念仏」ということになる(とても適切な諺)。色彩に至っては、明度、彩度は感じても色相なんて。そういう特殊な感覚を持つ人はあまりいないだろう。ということは、このオペラはごくごく限られた人のために作られているということになる。それは大劇場という再現の場とはそもそも両立しない。判っていての確信犯的な作曲とも言える。大家となって初めて取り組んだオペラ、これが現場経験を経ての反省や改訂をしておれば、まだもう少し上演される機会を得たかも。これじゃ、何十年かに一度の秘仏御開帳みたいなものだ。そういう特別なイベントに仕立てない限り聴衆を獲得できないのではないだろうか。ともあれ私は聴いた。これが間違いなく最初で最後の機会になるだろう。

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