夏山トレーニング 〜 三度目の堂山
2022/6/19

土曜日、この夏にトムラウシ岳に登るという東京の友人は近場でトレーニング山行とか。こちらも恒例の北アルプス行きを予定しているので、日曜日、夏山トレーニングに出かける。ほんとは伊勢山上に行くつもりだったが、ちょっと遠いし、梅雨時なので雨が降ったら超危険なので行先を変更した。いつもの矢田丘陵ウォークより少し長くてアップダウンもある、お気に入りの堂山へ。

自宅から1時間半も走れば登山口に達する。湖南アルプスなので、バス停もアルプス登山口というのが可笑しい。ここまで、京都市内は通過しないし、ここは大津市だけど街中は通らない。瀬田川支流の天神川沿いに山間に入ると、前になかったものがある。巨大な陸橋が建設中だ。そうか、第二名神、片側3車線ぐらいありそう。途中の国道370号沿いにも工事現場があった。あと二年もすれば開通なんだろうか。名神高速と並行して京滋パイパスがあるのに、第二名神の必要性があるのだろうかとも思うが、それだけ通行量が増えているということか。これで宝塚や草津あたりの渋滞が解消されることになればいいのだが。
 工事現場を過ぎれば以前と変わらない林間の道、不動明王を祀っているところが堂山への取り付き、山登りだけじゃなく川遊びのクルマが何台か駐まっている。

明治時代のオランダ人技師、デ・レーケの名前を知ったのは初めて堂山に登ったときだった。御雇い外国人技師ゆかりの鎧(よろい)堰堤のところに説明板があった。私の1/25,000の地形図にはダム湖が表示されているが、現地にそんなものはない。地図に記された水面は完全に土砂に埋まり、山中に原っぱが広がっている。明治の堰堤はその役割を終え、外側に新しいダムが二重構造のように建設されている。淀川の治水のためには遥か上流から手を付けないと成果が得られないということから、植林と堰堤の建設が行われたわけで、近代化遺産として姿をとどめている。令和の第二名神のすぐ傍に、150年近く前、明治の鎧堰堤がある。

堂山が面白いのは、沢筋を詰めて歴史的建造物を眼にし、元ダム湖を歩き、緩やかな林間の道を抜けると、花崗岩の露出した尾根道に出るという、変化の妙にある。六甲山系にも同じような場所はあるが、人の数が段違いで、こちらは静謐そのもの。休憩していると、鳥の声だけが聞こえる。

最初のときは堂山を往復、二度目はカミサンと一緒で、周回コースだった。それで、今回は堂山から北の新免集落のほうに下山しようと思ったのだが、尾根道の分岐には「通行止」の大きな看板が。そういうことか、山裾を切り裂いて第二名神の工事が進められているためだ。当面どころか、あと何年かは通れないのだろう。こっちの登山道は廃道になってしまうかも知れない。

堂山の山頂で早いお弁当を食べていると、ちらほらと登山者がやって来る。反対側からやって来た二人連れに、どのルートなのか、私の地図を示して尋ねてみても、いまひとつ要領を得ない。いまどきの人は紙の地図なんて馴染みがないんだろう。そのあとに現れた単独行の高齢者、「ここの下りは間違うと危ないから、一緒に行きましょう」と、先の二人連れを先導して下って行く。確かにどう露岩を捲いて行くのか、下りだと間違いやすいところがある。この人は何度も登っているようだ。ここはリピーターの多い山なんだ。
 そして、結局、私は2回目と同じコースを辿ることとなる。もっと先まで西に下る道があるかと思ったのだが、見つからず。前回同様、矩形の周回コースとなる。頂上から林道まで40分程度、クルマを駐めたところまでは1時間、陽は高くなり汗だく。まあ適度なトレーニングかな。

《デ・レーケ余話》

明治18年に起きた淀川大洪水、その直後に書かれた大阪府知事宛の請願書が大阪府公文書館に残っている。同年9月14日の日付で、請願者は大阪商法会議所会頭五代友厚の代理として副会頭藤田傳三郎の名がある。藤田傳三郎は淀川洪水の罹災地を買い取り、そこに大阪本邸(網島御殿、現在は藤田美術館、太閤園、藤田邸跡公園など)を建てた人物でもあり何やら因縁めいている。

大阪商法会議所とは大阪商工会議所の前身であり、藤田傳三郎は五代友厚の後を襲い二代目会頭となる著名実業家である。明治大阪の経済界を支えた大物二人が名を連ねた請願書では、開削予定の琵琶湖疏水がもたらす淀川の流量増加への懸念を背景に、再調査の必要性を訴えている。大阪商法会議所の立場として、大阪経済への負のインパクトに警鐘を鳴らしているわけだ。

琵琶湖疏水の立役者であり、日本の近代土木工学の礎を築いたと称される田邉朔郎を“田邉某”と呼ぶ一方で、この請願書で全幅の信頼を寄せていたのがオランダ人技師、デ・レーケである。「内務省御雇蘭國人デレーキ氏ハ有名ノ水理博士ニシテ嘗ツテ淀川流域ニ係ル御用ヲ担任シ數年間淀川水理上ニ従事シ最モ實際ニ明ラカナル人タリ」として、現在は本国に帰国中であるが年内に再来日した暁には、「同氏カ精確ナル測定ヲ得テ障害ノ有無深浅ニ係ル疑義ヲ決シ実ニ進止ヲ定ムルノ外ナシト思考セリ」と結論付けている。つまり淀川治水に長年の経験を持つデ・レーケの分析判断の結果、問題なしとのお墨付きが得られれば、ネガティブな風聞を一掃して大阪の商業発展に資することになると強調している。ここには、明治新政府の下での国造りにおいて、各方面で重用された御雇外国人への評価の一端を示すものがある。

デ・レーケの足跡は京都府にもある。次図は京都府木津川市のJR奈良線棚倉駅付近の地図と写真である。駅の近くのトンネルの上は山でなく川である。木津川支流の不動川が天井川となっており、付近の集落のずいぶん上を流れている。これは、東側の山地を侵食した土砂の堆積の結果であるが、この不動川上流にはデ・レーケの築いた堰堤があり、現在は不動川砂防歴史公園となっており彼の胸像もそこにある。

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